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、『鏡子の家』。楠木正成像と広瀬武夫像。そして主権回復。

三島由紀夫の名著、『鏡子の家』に不思議な一説がある。登場人物の清一郎が、同僚の佐伯と昼休みに宮城外苑へ入った時のエピソードである。そこに鎮座していた楠木正成像について思いを馳せる場面である。
「こんな古い忠君愛国の銅像が、あの占領時代をとおして、無事に生き抜いてきたのはふしぎに思われる。楠公よりも、馬があんまりよく出来ているので、馬のおかげで目こぼしこぼしをしてもらったのかとも思われる」(『鏡子の家』昭和39年10月5日刊 新潮文庫所収)
この楠木正成像について一般財団法人国民公園協会のホームページから考察してみよう。
皇居二重橋の正面に鎮座している。楠木正成は南北朝時代の武将で「建部中興の忠臣」とされた。彼自身の出生は不明である。明治以降は「大楠公」と称された。そして明治13年(1880)には正一位を追贈された。ある意味古くから「軍神」として崇められており、清一郎が何故GHQ、当局からこの銅像が排除されなかったのか疑問であったのは当然であろう。楠木正成の功績に話を戻そう。
後醍醐天皇の倒幕の命を受け、執権であった北条氏を破り鎌倉幕府倒幕に尽くした人物である。それが皇居に存在している不思議がある。そして破壊された物もある。
戦後に破壊された忠魂碑、銅像で有名なのは広瀬武夫、杉野孫七兵曹長像がある。明治37年(1904)3月27日に、第二回旅順港閉塞戦で、「福井丸」の指揮官となった。行方不明の部下を捜索中にボート上で被弾し戦死した。戦後中佐となり、軍神として国民的英雄となった。
広瀬の功績を検証しようという動きは国民的気運として高まっていく。そして銅像を建立するための寄付が募られ、神田須田町の万世橋近くに明治43年(1910)に建てられ、同年5月29日に除幕式が行われます。
昭和20年(1945)8月15日に終戦を迎え、GHQから忠魂碑、それに伴う銅像を今後どうするかという議論が昭和21年に持ち上がります。そして東京都で「忠魂塔、忠魂碑等の撤去審査委員会」が設置されます。そして「戦意高揚、敵愾心の助長等
」の観点から、東京都の判断で昭和22年7月21日、22日に撤去作業が行われたのである。
楠木正成像、西郷隆盛像が現存するのは文化的価値が高いから等所説言われているが、破壊された忠魂碑、銅像の線引きは明確ではない。
そして三島は朝鮮戦争特需の後に訪れた不況に対して清一郎はこのような呪詛を述べている。
「不景気な眺め、不景気な風景、・・・・・・そこに在る物がどう変ったというものでもなかった。朝鮮戦争が終わったあと、一時的な投資景気が去年いっぱいつづいて、又もや不況がはじまった。「不景気」という言葉は、まず新聞の紙面から灰神楽にように舞い上がり、そこらじゅうにひろがり、空気を濁らし、物象の表面にふりかかり、その意味を変えてしまうのだった。たちまちにして、樹は「不景気な」樹になり、雨は「不景気な」雨になり、銅像は「不景気な」銅像になり、ネクタイは「不景気な」ネクタイになった」(『鏡子の家』昭和39年10月5日刊 新潮文庫所収)
昭和27年にサンフランシスコ講和条約で日本は主権回復を果たし、国際国家として世界に建前上は参加できるようになった。朝鮮動乱も終息し、不景気といわれていたが安穏とした「平和」が時代に横たわっていた。ここから日本は高度成長化に向かい平穏な経済繁栄を国民は享受しようとしていた。
しかし、忠臣と呼ばれた楠木正成像は何故か生き残り、日露戦争の英雄、広瀬武夫像は破壊された。GHQの威光を恐れ、忖度して破壊した東京都。三島由紀夫は日本がアメリカに追随し続ける現状をリアルタイムで、小説の中で慟哭したのである。そしてそれが未来永劫続く絶望感を三島は敏感に感じ取っていたのであろう。
 何故三島は新居に悪人が住むような家を想定したのか。三島は虚構のGHQ、それを象徴するマッカーサーが去った後も日米安全保障条約の制定等。日本は連合国、特にアメリカの動向に日本は翻弄されてきた。その欺瞞の平和の中で執筆し、文学者として成功していく三島由紀夫は大日本帝国憲法と日本国憲法の狭間を生き、大東亜戦線で同年代が散華することを意識しながら敗戦を迎えた。
「戦後」という時代空間の中で文壇の寵児となった三島。そこで経済的に成功した三島が新婚と共に建築した豪邸を「ええ悪者の家がいいね」と表現したのは大東亜戦争で散華した英霊に対する慚愧に堪えない思いがあったのではないだろうか。

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秋山大輔
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