見出し画像

伝わらないって話

先日、とある大学の教授の方が
「伝わらない」というのとをSNS上でつぶやかれていたのに、興味を惹かれた

先生の「感受性のシンクロ」という言葉がとても気に入った

精神科医にシンクロニシティについて意見を聞くと
「偶然の合致という現象は常に起きている。たまたま気がついたときに、意味を感じたくなる」と返信の中でつぶやいたら、先生「がっかりしないですみますね、ありがとうございます」っと伝わらないと思っていたことが伝わったという不思議な体験だった。

「伝わるんだ!」

と、不思議なことに、やっぱり自信生まれる

なんだ、ビビらずとも、うけとってくれる人がいるんだ (。◕‿‿◕。)づ

なんて、おもって、ある団体のイベントで講師募集をしていたので、瞑想講座の講師として手を上げ、意気揚々とプレゼンをしたら、まったく暖簾に腕押し、糠に釘 ╮(╯_╰)╭

なんなん?とか、さも相手が悪いように思うけど、違う違う。

誰でもウェルカムだと募集要項にかいてあったし、団体のイベント趣旨に合ったワークショップの紹介も、これ以上簡単にできないだろうと言うぐらいのできだったが、全く、全く反応が無い。

伝える力がない

瞑想そのものに興味をもってもらえない

ただ、1つ、ある種の共通なアウェイ感を毎回感じるのだ

「あなたは仲間ではない」という感覚

何か問題があるはずなのだ

交われない、超えられない何か

思い過ごしではなく

「は?」という感覚なのだ。

それは私が無作法なのかもしれない

わきまえてない

これもきっとクオリアのひとつに違いない

メタ認知力を駆使

それこそ、ヴィパッサナー瞑想で体験する、自分が自分を見てる感覚なのだ

「この人は誰なんだろ?」

「いったいこの人は何をいってるんだろう?」ではない。

いかんいかん

人生の信頼感は、経験し、熟練し、認められる順番があることは充分わかっている

しかし、大学で、授業を選ぶ時、評判の悪い教授は取りたくないけど、実際は何を学びたいかで、選択科目が決まる。教授の経歴は授業中に自己紹介で聞くぐらいだ

という、自分の常識なんて所詮、井戸なのだ

海外で生活したからといって、なんなんだ
ここは日本で、そんなことは通じない常識なのだ

日本だけではないかもしれないけど、
ネットワークビジネスが流行る理由がわかる

内容より、誰が話しているかということが大切なんだと実感する

多くの人は何を学びたいかではなく
何かをやってきた誰かと繋がりたいのだ。

そして私自身が30年掛けて培ってきたものをアウトプットし、実績と知名度をあげなければ、瞑想1つ伝えることが難しいことを実感する

実力とは、アウトプットに限る
私はインプットの方が好きだ

聞いてくれる人は稀有で徳の高い人たちなのかと
感謝しかない

自分で自分を認めるしかない

同じ波長の人と出会った時の喜びは間違いない

先生だけじゃなく、伝えるプロの才能はすごいテクニックだと理解する。

伝わらないことが辛いときは
テクニックを学ぶか

伝え方をかえるか

または

伝えるに値するか考えるのも良いかもしれない

ある友人が、紆余曲折しながら、いろいろな不思議なセミナーを受け、洗脳されかけ、それから抜けたあとでも、その経験は役にたったと言っていた。

自分が伝えたい言葉は

相手が聴きたい言葉なのか?

今回のプレゼンを終えて改めて考えた

困っていない人には響かない言葉もある

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?