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「英語で読む『般若心経』」講座から自分の言葉で書いてみるという宿題
久しぶりの般若心経ネタです、
先日から仏教伝道協会により4回コースで開催される「英語で読む『般若心経』」という講座を取っています。曹洞宗の有名な僧侶、藤田一生老師の講座なのでとても興味深い。学者肌の僧侶であるので、とても研究熱心で、古い物から新しい物まですべって呑みこんでしまいそうな勢いで、聞いているだけで楽しいです。
さて、今回は、故ティックナットハン老師が英訳したという般若心経と和訳漢訳と3種類を読み比べて学ぶ講座となる予定。ティックナットハン老師は従来の漢訳の「無」に疑問を持っていたというところに、早速共感できました。
そもそも「空」と「無」は、ある条件がないと語れない、という矛盾があります。
「私」や「我」もまた然り。
執着している我がいるから、執着を捨てることができます。
「空」とか「無」を知るための条件というんが、仏教では因縁で、全ては空相だというのは、そこに由来するのだ。無もまた「有無」の無となり、有があれば無が対になります。
般若心経はそれを淡々と説ています。
さて、この短い経典には最後にマントラ(真言)が付いています。
大抵、最初に問題提起があって、途中が理由で、最後が答えがあります。
般若心経のマントラ(真言)は、以下のとおりです。
羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)、 波羅羯諦(はらぎゃてい)、 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)、 菩提薩婆訶(ぼじそわか)
一般的には次のような訳になっています。
(彼岸)往った者よ、往った者よ、完全に往った者よ、悟りに幸あれ
ここでいう彼岸とは、本来は死ぬことを表すが、悟りの境地に至ると解釈されています。
悟りには大悟と小悟があって、大悟は究極の悟りで、小悟は日常の悟りと考えられていますが、大悟は仏陀のみが体験した悟りで、小悟はその他大勢の悟りとも考えられます。
となると、「完全にい入った者」というのは、仏陀の事になります。
そもそも般若心経は三蔵法師によって書かれたお経であって、ゴータマ(シッダールタ)ブッダが書いたものではありません。
そう考えると、真言は仏陀に対する敬意を示したもので、前半の教えの部分は、般若(智慧)の修行をした観自在菩薩が悟った智慧の話ということになります。
観自在菩薩は、ゴータマブッダが何を知ったのか、どんな智慧を得たのかを知ったことになり、「空相」を体験し、大悟に至った仏陀の悟りを賛美しているように訳されていることが多いです。ただ、しかし私が今回般若心経で新たな視点に加えたのが、この般若心経のメッセージです。ヒントはChatGPTの真言の日本語訳から得ました。
大乗仏教では「空」の理解が重要だとされています。ただ、般若心経では「空」は何も教えってくれないので、智慧の完成の修行が重要だと説いています。「空」は、般若波羅蜜の修行の途中で体験できるが、そこが悟りの境地ではないことを示唆しています。
ヴィパッサナー瞑想でも、テーラワーダ仏教の教えでは何段階もの瞑想状態があり、その途中で、「空」の段階があります。そこで平穏、静寂とワンネスで体験し幸福感を味うため、「悟った」と思ってしまう実践者がいると言います。
「悟りの境地」
そこで、般若心経では、「空」との出会いに満足せずにそこで、更に問い(気づき)を持ち智慧の完成の修行によって先に進みなさい。というメッセージが次に続きます。
何故なら「空」の状態を知る時点では、「我」がそこにはまだ有の世界だからです。
話を戻しますと、観自在菩薩は最初にすべては空相だ!と定義づけ、「空」は空であって涅槃ではないぞと、その理由を述べています。
次に、過去現在悟りに至った者たちは、般若(智慧)の完成によって最高の無上の正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に至ったと告げています(ここが大事だと個人的に思います)。そして、「むこう岸へ渡り完全に至りなさい」(真言)が最高の真言だと告げています。
菩提を得た者が仏であり、これを目指す衆生を菩薩という[1]。声聞菩提・独覚菩提・仏菩提の3種の菩提のうち、仏菩提は至高であるため無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)とも呼ばれる
さて、ここまでの私の般若心経の解釈では、空の理解が大切なのか、真言が大切なのかというと、般若心経では、深い智慧の修行を行い、空を通り過ぎ、悟りの境地に至りなさいよ、という真言が大切なメッセ―ジいうことになります。もちろん空を知ることは智慧の完成に不可欠ですが、空で留まらず修行を続け涅槃へGO!!という教えだと考えました。
「空」は般若心経以前にすでに使われおり、それを哲学的体系的に述べている経典が般若経群だとされています。般若心経では、観自在菩薩が空相の何たるかを覚り、舎利子に「物質世界」と「空」の関係を説いており、「空」を体験すれば、それらが判る、という説明になっていることになります。
空の体験に至ったのが、最初の行深般若波羅蜜多となります。 深い智慧の完成のための修行が必須になるということです。
では、智慧とは何か?
それを育てる瞑想の一つが、マインドフルネス瞑想の一つであるヴィパッサナー瞑想とされています。
根本的な智慧というものもあります。
そもそも仏陀の悟り根本の「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つが「空」の説明になっているます。原始仏教において、執着しない対象が何もないを表す「空」だったそうです。
サンスクリット語「sunyata(シューニャタ)」を日本語訳で「無」と訳すと余計難しくなる。それを「無自性」と訳すことに一照老師は指摘していたので、わかりやすい。
また、一照老師は「五蘊皆空とは何か」と問われた弟子は、「体を作っているものも全ては『ない』」ということです。」と答えて、師匠に鼻をつままれて「あいててて」となったという話されました。
五蘊皆空は、「五蘊はすべて無い(不在)」と訳すのはおかしいことはこれで分かります。
だから、諸行無常、諸法無我に続く教えとして、因縁が登場します。
鼻をつままれなかったら、痛くないから、鼻など存在していても気にならない。つままれるようなことを言えばつままれる、つままれれば痛いので鼻という存在に気が付きます。
気にしなければ、そこには何も存在しない。執着しないと気にならないは同義語だと考えます。
仏陀の有名な話で、「悪口を言われたら~」に対して、誰かが贈り物をくれたとする。でも受け取らんけれそれは私のモノではない。受け取らないという選択は、悪口でも同じである。声は箱に詰められたモノとは違って、聞こえてしまえば、心が感じてしまうだろう。しかし仏陀式では、「言葉は発した人のモノである。」と考え、「そのままお返しします」ということである。
大らかに受け止められる度量と智慧と知識と所作を含めたその人の在り方となることが結果的に悟りの境地に住する人だと考えられます。
それは、どの宗教の倫理的観点から人として神に愛される人として、他者から祝福される存在となることは、アリストテレスの幸福論からも理解できます。
この智慧を完成させるための戒定慧の修行が般若波羅蜜になのです。
さて「空」の場には「無知も無い」と書かれている。それは、我がないときに無知はない、と言っているわけだから、いちいち傷ついている我がいる限り無知があるとなります。
五蘊は空相である。
五蘊は「私」ではない。そもそも「私」とは何なのだろうか。
五蘊が集まったところに、「私」だと思う「私」が生まれる。
ソフィーの世界の「who am i?」の沼に落ちないためには、仏教の「私というのはいない」、という方がすっきりしています。
しかし、物質世界には私の体というものがあって、その体には私の気持ちによって動揺する心があって、それをつなぐように精神という領域が存在します。
ヴィパッサナー瞑想も物質世界におけるこの肉体と精神をコントロールするための修行とも言われていますが、深い段階に入っていく上級者になるとワンネスまで辿りつくことができると言われています。
私のメンターの師匠は幽体離脱までできるレベルにあると言っていました。当然目的は幽体離脱ではなく、悟りの境地に至ることですが、その過程ではこの五蘊からの解放、空の体験、そしてのその先の次元があります。
基本的に精神病患者など偏りが強いクセがある場合、禅病(魔境)へ落ちてしまう危険性が高いので、深い瞑想をするべきではないう意見もあり要注意ですが、適切な指導者がいれば先に進むことも可能です。
般若心経で謳っている智慧の瞑想を行った結果、はっきりと、この世の空相が理解できるし、その先の智慧を得て、その先へ旅をすることができます。
般若心経の中で、深い般若心波羅蜜を修行している観世音菩薩のことを考えると
単にヴィパッサナー瞑想をしています、という一般人だけでなく、それまで菩薩行を常とし、人々を救わんと努力された菩薩です。八正道という道を歩み続け、欲界・色界・無色界の三界で螺旋的成長を続けた結果の悟りだったと思います。
般若心経意訳
観自在菩薩は悟った
全ては空で
空は全て
悩みは一切消えた
気が付かないのが空
この世界の全ての物事に
気が付くことはない
それは空である
空は見えないし感じない
空が増えたり減ったり
汚いとか綺麗とかもない
気が付かつかなければ空である
空には何も得るものはないと知ったから
過去も現在も未来も仏たちは
智慧の完成によって無上の正覺を得た
正しい智慧の完成で心の覆がなくなり
恐れもなくなり
惑わされることなく
涅槃にたどり着いた
だから、智慧の完成の真言は
迷いを取り除いてくれる力がある
偉大で神大な真言は
この上なく他にくらべようがない
歩み始めた者たちよ
川を渡り始めた者たちよ
向こう岸へ渡るの者よ
向こう岸へ渡りきり至りなさい
悟りに幸あれ