「0」と「空」を考えた。「空」によって「捨」が可能になるなり、「0」によって諸行無常の中で物質が存在できるのではないだろうか?
古代インドで産まれた0について考える
サンスクリットで「空」(からっぽ)
シューニャ。英語では「Void」
紀元前500年頃バビロニアではすでにが概念的にゼロは形象文字で表記されていたそうだ。
ピラミッド建造の頃から計測上3桁の大きさ重さを表すためには表記された中に測れないもの(現代の「703」の0にあたる部分は「ない」)にはマークをいれるしかなかった。
それをインド数学において0という整数として存在させたことは画期的なことだったようだ。
ではなぜ0は「何もないがある」なのだろうか。それならば、現在、般若心経の「空即是色 色即是空」の「空」は「何もないがある」ということだ。
先日、曹洞宗僧侶の藤田一照和尚と作家田口ランディ氏のトークイベントに参加したとき、「空」=「0」が話題に上がった。
5 x 0 = 0
どんな数字に0をかけても0になるし
0にどんな数字を掛けても0になる
これによって空即是色 色即是空を説明
すべてのことは空(0)によって消されてしまう、と。
そこで疑問が起きた。
「空は無なのか?」
「0は無なのか?」
漢文の般若心経では無と空を別けている
色即是無ではないし、無即是色 でもない
「無は存在しない」が、「空は存在する」
「無明」「無無明」は「空明」ではない
空は0なのだ。0という条件(因数)
0は「何もないがある」という条件
必要十分条件
二つの条件 p 、q に対して、「 p を満たすものは全て q も満たす 」 というとき、「 p は q である為の十分条件である 」 あるいは 「 q は p である為の必要条件である 」 という。
また、「 p は q である為の十分条件であり、q は p である為の十分条件である 」 というとき、「 p は q である為の必要十分条件である 」 あるいは 「 p と q とは同値である 」
wikipedia「同値ー必要十分条件」
定理 (Ruffini[要検証 – ノート])多項式 f(x) が一次式 x − α を因子に持つ必要十分条件は f(α) = 0、すなわち α が多項式 f(x) の根となることである
wikipedia 「因数定理」
空は条件(因)
因果の法則となれば
あらゆる条件次第で色はいかようにも変化する
故に諸行無常であり諸法無我となる
因は一時的な果を存在させ
その存在は因によって変化する
よって固定された果も我は存在せず
法は因である空(条件)しかない
「何もないがある」という条件
ここで空は「何もないがある=0」の「何もない」部分について考えてみる。
何もないの存在とは?
加算と乗算の違いも考えてみる
「何もない」では「無」と混同してしまう。
「何もない」存在を下記の例から「変化しない」条件と言い換えることができる
「諸行無常」に「変化しない」を足すと
「諸行無常」のまま
状態に条件をたしても変化し続ける状態はかわらない。変化が止まるわけではない
「諸行無常」に「変化しない」を掛けると
「無」
変化し続ける状態に変化しない(変化するがない)がある条件を掛けると変化すること自体、そもそも存在しない。
例えで検証してみよう
5 + 0
5になにも何もないを足す
変わらず5
5 x 0
5に何もなにもないを掛けると
0
加算の場合、ここに5がある(りんご5個でも角度5度でもよい)それに 0個や0度を増やすがもとの量から変わらない
乗算の場合、5という一つのまとまりと考えいくつあるかが条件(因)(5人組グループでも一辺5メートル図形を計算するでもよい)
グループの数0個や底辺0メートルを掛けたとする。0個だし、図形の面積にはならない。前者は4人組はあったけれだ5人組のグループ自体が存在しないという意味で、存在したグループをなかったことにする行為ではない。そして後者は、縦線に対する横線を探してみたが該当する線がない。よって四角形自体が存在しないということになる。もともと条件を掛け合わせる因果が成立しないのだ。
文字を当てはめてみると
5 + 空 = 5(5は変化なし)
5 x 空 = 無 (5はもともと存在しない)
ここには二通りの意味に分けられる
検算をすると
空 = 5 − 5
空 = 無/5
従って計算上は空も無も0になる。
しかし、空は条件であり、無は「存在しない」のだ。
カール・セーガンは宇宙の共通言語は素数だと言っていた。
そして映画にもなった著書「Contact」のエンディング、宇宙からのメッセージは「〇」の形を「慈悲慈愛」の代替として二進法で送ってきた。永遠の愛と赦しを表現した。
〇のうち、インド哲学では「ないがある」を数字0 と表し、大乗仏教では「空」と表したと考えることができる。
そこから導けることは
空は〇に含まれるが○そのものではない。
次に
色即是空 空即是色
「色」とは触ることができる形あるすべての存在。それは「空」であるとは、どういう状態なのかを考えてみる
「物質的存在は、【何もない条件がある状態】であり【何もないがある】は、物質的存在」
「何もないがある」=「変化しない」と言い換えた。
変化しない状態は、平穏、平等、中立(どちらにも偏りがない)の状態であり、Upekkha(ウペカ捨)なのだ。
ここで、合点がいく。
空は0であり、無ではない。
したがって「因果生」にたどり着く
因=空
変化し続ける道理の中で、物質化しまたは分解され続ける素粒子の一刹那一涅槃寂静において「変化しない条件」の空がその変化し続ける物質がを支える。
バイナリー
010101
「空」という変化をしない条件がなければ、物質や情報は変化の連続の中に存在することができない。
変化しない状態と諸行無常の連続が「色即是空 空即是色」なのだ。
「0」は、変化の中にある「変化をしない条件」=「空」なのだ。
空は諸行無常なのではない
諸行無常の原理の中で
空は因なのだ。
Upekkha(捨)は空によって可能になる。
釈迦は博学の王子なのだ
無常と物質の変化を人の生死をもって観察し気づきを得ている。
変化の中に空があり観察可能になるのだ。
私達は五感をもって0「変化しない条件」の瞬間瞬間の物質状態を、脳の時間という連続性を担保する記憶情報によって、物質の同一性を確認しながら生きている。(15秒よ過去 記憶が連続性、同一性の認知を確保している)
気がつけば、変化は起き続けている
その気付きがマインドフルネスの正見になる。
空の作用
物質化という現象の中で
変化をもたらすために変化しないという条件が存在する。
したがって
「0は空である」
空がなければ、この世はないのだ。
空は、何もないという意味ではない。
何をしてもすべてがリセットされるのではない。
空は因であり、条件なのだ。
三法印の中に答えがあった。
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
空はすべてにおいての因なのだ。
そして、0は空であり「変化しない 」条件なのだ。