言霊〜バナナの皮現象は、本当に不思議な体験の前触れなのか?
2月20日に「バナナの皮で滑る芸」のような転び方をして、肋骨にヒビが入るほどのケガをした。そして、これが三度目で、これまでの2回とも言葉では説明付かない不思議な体験をした、そして、今回も何か起きるのではないかという淡い期待。もちろん、養母の死のような虫の知らせは除いては。
2月はとにかく、人との話をする機会が多く、社会的動物である人間の営みを感じた。慌ただしくしていると、寂しくはない。そして、独りきりになれる安らぎを覚える。 一人一人に執着する暇がないと、今度は立ち位置が観えなくなる。足元が浮ついていたのかもしれない。
だから、2月20日ケガをした。
そのことについて数日前に書いているが、不思議だ体験を待ちわびる自分がいた。
「何が起きるか♬何が起きるか♬」と少し期待をしていた自分がいて、明日には痛みが消えているぐらいの奇跡が起きることを願っていたが、そんなことは全く予兆もなく、深呼吸のできない辛さを身に染みて感じていた。
呼吸はとにかく大事
そんなこんなで1週間が過ぎ、「なんだ何もなかった。まだ胸は超痛いし」と思っていたのですが、27日から、潮目が変わりました。
27,28,とんで2日、経験したことのない体験が起きました。
27日も「これが今回の不思議体験か~!」と驚き
28日も「こんな偶然があるんだ!」と驚いて納得していのですが、それだけではなかった。
昨日、めずらしいことではないと言われたが、死について考える私にとって、極めつけのことを体験した。
やっぱり 「バナナの皮現象」には何か意味があるのかもしれないと思い始め、悪い癖にならないように、メンタル的にスキーマ解除した方がよいと考えた。
27日に出会った「愉氣」という気功がすばらしく、施術してもらおうと昨夜遅くに予約のメールを入れましたが、返事が来ない。
耐えきれなくなったので、通ってる心療カウンセラーに夜中にメールしたら、深夜2時に返信がきた。
「もちろん一般診療へきてもらって大丈夫です」と。
これだけで、涙が溢れ、眠りにつくことができた。そんなもんなのだ。解決より先に、誰かに聞いてもらえる安心感。
この広い世界、死なない人は誰もおらず、生活習慣病の高い国では、心臓の不具合による突然死も多いようです。
私が19才のクリスマスイブ、母の親友が大学の教授をしていて、息子がバイトしているピザ屋に注文して、その息子が頼まれたピザを 父親のデスクの上に置こうとしたとき、そのまま卒倒して、亡くなってしまった。
急性心筋梗塞の死は、まさに交通事故の死のように突然命を奪う。
眼の前で、話していた人が、突然崩れ落ち
そのまま帰らぬ人となった。
死とは、そういうものなんだと知った。
医療によって、もっと生きたい、もっと生きてもらいたいと思う人の気持ちを優先してきた。
苦しみが永遠のように続くのもそのせいなのだが、反対に医療のお陰で、奇跡的に回復することもあり得る。
私には、分からない。
とにかく、二度とバナナの皮滑りはしたくない、ということだけは間違いない