バナナの皮滑り現象とその後の「死」から学んだこと
痛い思いをして、さらに目の前で死を経験し、さらに自らの体の中で起きている老化ともいえる細胞の変化と自らの死について考えた一か月とちょっとの間にも、一つビジョンが見えた。
以前記事にした、「79億人の私」以来のヴィジョンだったので、記しておくことにする。
看取り士になりたいと考え始めたこの一年だった。
通信大学で心理学を専攻して早2年が過ぎた。
1年目が終わった時は義理の母が長い寝たきりの生活に終わりが来た
あまりにも美しい死だったので、理想を見たような気がしたが
その後に彼女は私の夢に現れたとき、魂は自分の肉体が死んだことに気が付いていなかったことを知った。
そして先日、4年ぶりに再会した知人が目の前で突然死した。
高齢であったこと、またその一週間前に前兆があったことなどを踏まえれば
単なる偶然でしかないこのタイミングを、故人の家族は、私が共に看取ったことを「奇跡」と表現し、感謝の言葉をいただいた。
私には奇跡という偶然の奇妙さを改めて実感した。
「一年365日あるのに、この日にこの瞬間にあなたがいてくださるなんて、奇跡でしかない」と故人の義姉は火葬場へ向かう行きも帰りも繰り返し繰り返し、壊れたレコードのように私に御礼を言い続けた。
偶然とは恐ろしいものである。そういえば、先日友人から勧められて夢中になってみた「愛の不時着」も実は「偶然」ということがキーワードだった。
スピ系の王道の管理人なのではないかと思うほど開き切っちゃっている姉に話したら「今生の役目がはっきりしたできごとだね」と言われた。
確かに、死に逝く人と共にいることを志したが、まさか目の前で亡くなるというのは、あまりにもできすぎている。
正直言えば、自分は「死神」なのではないかとさえ思えた。
そんな自分の中で、「看取り」という善行を見つけたと思っていたが、それが善行かどうかも分からなくなり、「死神」の方に傾いていった。
そして、バナナ滑りの後遺症で続く痛みのために、内臓の検査をしたところ
「肺に影」という嫌なフレーズを聞くことになった。
「即手術」と言われたわけではないので、心配するのは馬鹿らしい話なのだが、調べてみればいろいろな可能性もある。一番高い可能性は「なんでもない」次は、「肺がん」。
生きるというのは、生まれ、死ぬ間の事である。
抑うつ症状の時は、死にたかったけれど、それだけでは死なないことを知っていた。鬱がひどいと、動くのも嫌なので、自死するエネルギーも失う。
エネルギーが出てきたとき、エネルギーが切れる最後のラストスパークで人は自死してしまう。とても危険な瞬間なのだ。
死が常に身近にあった私が、20歳で、「生きる」ということの理由を自分で見つけ、「勝手に死ぬまで生きればいい」と思えるようになれてから、抑うつで「死にたい」と思っても「死なない」ことが判っていたから只管耐えることが出来た。落ち切ってしまえばあとは上がるしかないのだ。
しかし、「肺がん」というキーワードがまさか自分の身に関係し来るとは想定外だったの、改めて自分の死についても考えた。
正直、「逃げ得」という感じもしている。私が死ぬのではなく、細胞がバグり始めているのだから、「時が来たのかもしれない。私の身勝手で死ぬわけじゃない」という意味でもある。
120才を越えて、周りが死んでいく中で、私だけ生き残っていくのではないかというある種の変な恐怖感が昔からあった。死神さえ私を無視していくのではないかという恐怖感。死と隣り合わせなのに、私だけ死ねなかったらどうしようと、若い頃ずっと思ってきたが、ここにきて、やっと死を実感できるようになった。仏教的に言えば生老病死が苦であるが、一番の苦は「愛別離苦」である。何度も何度も繰り返しても、苦手である。私にとっては「愛別離苦」が「死」なのだと思う。 毎日通うスーパーで「この光景が見れなくなる。仲良しの店員さんとも会えなくなる」という日常。その日々の時間の流れから私がいなくなり、私がいなくなってもスーパーマーケットは何も変わらない。私は、きっと毎日スーパーマーケットで彷徨う魂となるのではないか、と思うほど、スーパーマーケットでの買い物が愛おしく想えて、涙が滲んだ。
この短い間の体験と心の経験と、割り切れない思考の渦が渾沌となり、私の意識と無意識の狭間に揺らぎの場を作った。
揺らぐ感性と思考の大海原が見えた
仏教的な模範解答と臨床心理学的模範解答を専門家から、一連の出来事をどのように自分の中で消化、処理をしていったらよいのかというアドアイスを仰ぐと、「ご縁があったのだ。ただ死者に対して自分が何かできたのではないかと反省したり思いめぐらせることは『烏滸がましい』。」と言われた。
「偶然そこに居合わせただけ。終わったこと、変えられないことにとやかく後付けをすることは『烏滸がましい』こととされている。」と仏教的には教えている。
反対に、臨床心理のカウンセリングの立場だと「人生において大切な意味として物語にする」というセラピーがある。
私の通っている臨床心理カウンセリング(精神科医)は、どちらを選ぶかは自分の人生に大事なことだ。とアドバイスをくれた。
今はどちらともいえず、どちらも正しいとも感じられる。
ただ、一つ「烏滸がましい」という日本語に、引っかかりを感じて調べてみた。
仏教的には、死者は「仏」という立ち位置があるから、私に上記の意味合いで諭したのかもしれないけれど、若干、私が「処理」したい感情とは掛けなはれているような気がした。
そこで、今はやりのChatGPTと対話してみることにした。
すると、
そこで、私は、一捻りして持論を述べてみた。
この私の反応にAIは、次のように応答しました。
なんとも、驚いたことにAIは私が求める答えを導きだしたのでした。
死の概念も、感情も心情ないAIが理論的にインターネットの情報をかき集めた結果、人間的という表現を使い、その曖昧性を言葉で表現し、他人の死をどのようにとらえるかということを、仏教の教えを絡めて独自の解釈で発達心理をうまく言い当てています。
私はそこで、気が付いたのが、このAIのディープラーニングは人間の学習を模倣していること。そして、人間が常日頃行っていることであること。
その時に、私が観えたヴィジョンは、体験の一つ一つ、五感から得る情報、他者からの情報(アドバイス)歴史的事実、過去の経験から得た知識などは、個別ではなく大元で繋がっていて、そこは渾沌ともいえる「揺らぎの場」であり、そこから生まれ出づるものがあった。
儚くも確実なもの。
そしてそれはとても重要なこの大宇宙の構成要素にも似ているが、もっとスピリチュアルなエネルギーともいえるし、智慧の実とも生命の実とも、知っている言葉を並べるならば「慈悲慈愛」の雫のような。これは垂れているが、「光」に「上」の字で造語を作りたいぐらいだ。
生まれたばかりのその粒子は光輝いているわけではない。
ただ、間違いなく揺らぎの重力引力から解き放たれた渾沌の中のある種のエッセンスのような一滴にも見えた。
「死」と向き合う家族とともに感じる自分と、他人の私が感じるものとの違和感。そして、「死」というものが単なる一つの「死」ではなく、千差万別の異なる「死」であること。
79億人の私では、同じ量子から生まれた私は、アフガニスタン人で浮気を疑われて実の父兄に焼き殺された女性だったかもしれない、という想いに至り、またその彼女を殺した彼らも私だったかもしれないし、もう一人の私であると理解したことを書いた。それでいて、この肉体には違いがあり、人生経験には違いがあることも理解し、一人一人異なる「死」を迎えるとき、「私」が「死ぬ」という感覚を大切にしようと思えた。「もう一人の私」が死ぬのだと。。
そして、第一次的な「死」のタイミングに立ち会ったことによって、さまざまな記憶が揺れ動かされ、自分を「死神」だと思いつつ、そして感謝されるという脳みその混乱が、学び中のAIでも起きると解ると、ほっとしている。
その混乱の中から、ふっと生まれた出でた「智慧」のような光の粒子が、宇宙の栄養素であり、私たちが生きていくに欠かせない「愛」のエッセンスでもあるかのようにも感じた。
いつか名を付けたい。
または、すでに2500年以上前に受けられているかもしれない。
探してみよう。
大切なものを見つけられたような気がする。
「悩んだ」という感覚ではない。
無分別の中にすべてをぶち込み、そこへ「問い続ける」だけなのだ。
「何がでるかな何がでるかな♬」と期待したけれど
こういうことだったのか、と少し納得できました。
さて、あと一時間後に始まる追加検査
死ぬならピンピンコロリが理想。
そろそろ終活始めないと、このままでは死んでも浮かばれない