見出し画像

この国を覆っているもう一つの病、「形式主義」をなくしたい。  ~「国会答弁作成」廃止論。あと「マエヘナラエ」も廃止。

 久々にキレた。先月、某法務局に法人登記の申請を行って一週間ほど。認可予定日になっても連絡がなく電話もつながらない。やっと翌日つながった電話越しに、書類不備を指摘され、再提出の必要ありと。聞けば、法人の定款と登記申請書類で、法人の設立目的の記載で「、」と「,」が異なっていると。認可できない理由が、私が社会不適合者であるおそれとかの理由ならまだわかる(むしろ行政はそっちを疑った方がいい)。それが「、」と「,」の違いと言われ、どうしても納得がいかず、キレてしまった。(ちなみに、「、」の「,」法的な効果の違いや、句読点も含めた「完全一致」の必要性の法的根拠を詰めまくり、紆余曲折の結果、無事認可はおりた。)登記申請の一連のやり取りの中で、新たな法人で何を目的にどんなことをするのかといった実質の議論は一切なく、問題とされたのは、捺印・割印・捨印に、改行・スペース・句読点。すべて「形式」の話。

 今、コロナ禍を受けた緊急事態下で、ハンコの問題がクローズアップされ、一気に改革が進もうとしているのはこの惨禍の中でポジティブな動きだけど、それが、出勤を避け、対面や3密を避けるための改善にとどまってはならないと思う。より本質的には、この国を長く覆ってきた、目に見えず、感染力が強く、社会を蝕むもう一つの病、「形式主義」をこの機に乗り越えて、G7最低、OECDでも下位となったこの国の生産性を、奪われた創造性や活力を、取り戻すという視点が必要だと思う。

<危機でも変わらない形式主義>

 今回のコロナ禍のように、社会が巨大な危機に直面し、人が命の危険に晒された時、本来、形式などかなぐり捨てられ、本当に大事なことだけが炙り出されて然るべき。そうあってほしい。でも、危機に直面しても、それまでに沁み込んだ形式に乗っ取って行動する強力な慣性が働くことは、あの震災の時に、嫌というほど見せつけられた。9年前にもキレてしまったシーンが思い出される。
 まだ被災間もない3月下旬、それまでの仕事を休職し、緊急支援NPOに入り、現地で緊急支援物資の配給の調整をしていた。毎日夕刻に行われる、政府、自衛隊、NPOの代表が参加する緊急対策会議。行政の会議お決まりの、部門ごとに順番に報告をしていく形式。現場は混乱し解決すべき問題が山積しているのに、会議は淡々と進み、何も決まらず、問題解決も行われない。形式的に「発表」をし、何かあれば「持ち帰る」。あれだけ多くの人が亡くなり、人が凍えて飢えているのに。NPOの一職員だったが我慢がならず、声を上げてしまった。この会議は何のためにやっているのか。何を決めなければならないのか。(ちなみに、その後勝手に議論を乗っ取り、ホワイトボードで解決スキームを提案し、翌日から自衛隊と一緒に動くことになった。)

<あらゆる分野に蔓延(はびこ)る形式主義>

 この国の形式主義は根深い。この危機で簡単になくなるような病ではない。行政・官僚の世界だけではなく、民間の世界にも、教育の世界にもこの病は蔓延っている。民間企業でのハンコ問題が、今回のコロナ禍でついにクローズアップされ、この形式主義の権化のような因習を長年疎んできた者としては嬉しい限りで、これを機に完全にデジタル化すればいいなと思うけど、決裁や契約がデジタル化してハンコのための出社はなくなっても、形式を整えることで責任回避するための無駄な稟議自体をなくしていかなきゃ生産性は上がらない。教育の世界でも、ついにオンラインが普及し始めて、これもよい動きだけど、手段が変わっても、「正解を当てる」という形式主義的な教育や、タイツの色や髪の長さを指定するような形式主義的ルールが変わっていかなきゃ本質的な教育改革にはならない。コロナ禍が過ぎ、また子供たちが幼稚園・学校に集まれるようになった時には、あの忌まわしい「マエヘナラエ」だけはなくなっていてほしい。幼少期からの「小さく前へ倣え」という刷り込みが、どれだけ独自の意見を持つこと、他人と違うことをすること、「大きく外れる」ことを阻み、創造性と活力を奪ってきたか。
 この国の財産は「人」だ。今後残念ながら減り続けていく希少な人口、特に若い人たちが、この形式主義という病に次第に侵され、社会の活力が奪われていくのは忍びない。形式とは本来、実質を守るためにある。形式的な制度や因習によって、社会の実質的な生産性・創造性・活力が奪われていくのは、本末転倒どころの話ではなく、社会全体が自傷行為をやめられずにずっと続けているようなものだ。コロナ禍もこの先どうなるのかわからないけど、その他にも、超高齢化少子化社会で待ったなしの課題が山積している。この機に、3密を避けるためだけではなく、本質的にこの形式主義を脱却する機会にしなくてはと思う。

<「国会答弁作成作業」廃止論>

 と、バクっとしたことを言っていても何も変わらないので、最もシンボリックでインパクトのある具体的な改善のターゲットを提起したい。「国会答弁作成作業」だ。この機に、この国の統治機構のど真ん中に鎮座してきた巨大な形式主義を打破することで、この社会が長く患ってきた病を克服できるのではないか。官僚時代、この国会答弁作業に疲弊し、この巨大なシステムを変えることはできないと絶望して退職を選んだ。自分は辞めて抜け出しても何も問題は片付いていない。他の人がその重荷を代わりに背負うだけ。お世話になった先輩や仲間に申し訳ない気持ちはいまだに消えない。その罪滅ぼしとしてもこの問題を提起しなくちゃならない。(「国会答弁」ではなく、「国会答弁作成作業」の廃止。)

「国会答弁作成作業」とは
 まず、「国会答弁」を簡単に説明すると、この国の国会は、年初からの通常国会(~6月末頃)と秋の臨時国会(2カ月くらい)があり、衆議院と参議院それぞれに、全体での「本会議」と15~20の「委員会」での審議がある。(ちなみに、総理・大臣の国会審議出席時間は世界で類を見ないほど長い。同じ議員内閣制のイギリスの7倍以上という調査あり。)
 これらの国会審議で行われる質疑について、国会議員によるすべての質問の事前通告がなされ、それが担当省庁に割り振られ、担当省庁の中の担当課に割り振られ、担当課が起案した答弁案を、省内の関係各課がチェックし文言調整をして擦り合わせ、その後、関係省庁がチェックし文言調整をして擦り合わせる。関係省庁との調整で文言が変われば、また、省内の関係各課との調整が必要になり、それを関係省庁に戻す、という気が遠くなる作業が1問1問について行われる。さらに、実際に来た質問だけでなく、関連して想定される質問や、答えについて想定される「更問」についても答弁を作成するので、一委員会の一人の議員の質問(複数ある)について答弁作成を終えるだけでも膨大な作業量になる。そして、各答弁について、事実の裏付け、法的根拠、過去の答弁との整合性などが担保されていなければならない。「てにをは」一つとっても解釈に影響するため、文字通り一言一句をめぐって緻密で激しい調整が行われる。さらに、完成した答弁書は、質疑者順・質問順・質問ごとに並べ、場合によっては全部で 1,000 ページ超に及ぶ資料組みを行い、資料ごとに問番号のインデックスを付けるという作業まで行っている。
 現行のルールでは2日前までの質問通告が必要とされているが、実態は、前日の夕方、遅ければ夜に質問が来ることも多く、翌日早朝の政務(総理・大臣・副大臣・政務官)の勉強会までに上記の作業を完全に終わらせて耳を揃えて答弁書を用意する必要があり、必然、そこで出された質問に関連する省庁の担当部局・関係部局は夜を徹して作業を行うことになる。  
 質問は通常、特定の法案やイシューに集中し、さらにそこで答弁が何か問題になれば、その政治的な対応も必要になるので、その渦中にいる部局の人間にとっては極度の精神的・肉体的負担を強いられる状況が続くことになる。実際、これが原因で体や心を壊す官僚の方も多い。私のように脱藩する官僚も後を絶たないだけでなく、今や、この惨状は広く知られ、公的な分野に関心を持つ有能な若者たちも、この不毛な作業を避けるために官僚の途を選択しなくなっている。静かに、確実に進行している国家機構の危機だ。

国会答弁は壮大な形式的儀式
 では、この膨大な労力をかけた作業は、何のためにやっているのだろうか。この国の未来をかけた戦略論議や政策論争であれば、それは実質的であり、やりがいもある。しかし、残念なことに、国会での質問の大半が(一部の有為な国会議員を除き)法案をとにかくブロックするためか、(法案と無関係に)失言を引き出し政局にするためか、地元での得点稼ぎのために行われている。また、真っ当な質問であっても、官僚の側も政策論争を行うというよりも、法案成立や政権運営に味噌をつけないよう、実質的な議論を戦わせるリスクを取らないこと、言質を取られないこと、これまでの方針や答弁との矛盾を生じさせないことを最優先に形式的な答弁を作成しており、実質的な政策論争は別のところで行われている。要するに、今の国会答弁は壮大な形式的儀式だ。
 そして、その壮大な形式的儀式のための膨大な形式的作業のために、この国を支えようと希望に燃えていた有為な人材が毎晩浪費され、疲弊し、失望し、心折れ、霞ヶ関を去っていく。(時にはこの世を去ってしまう。)こんなことをいつまで続けるのか。
 
国会答弁改善私案
 もちろん、国会審議が重要であることは論を待たない。民主主義の基盤だ。
 では、どうするのか。私見は、ラディカルだが、思い切って事前質問通告自体をなくしてしまえばよいと思う。
 事前質問がなければ実質的な議論ができず、国会の形骸化がさらに進むという声が多いが、そもそも法案を作成する際には、役所は実質的な論点について当然に想定問答集を作っており、実質の議論をする準備はできている。それを答弁する政務(総理・大臣・副大臣・政務官)が十分に勉強し、咀嚼した上で、自分の言葉で議論に臨めばよい。国会審議を政治家同士の本当の意味での政策論争に切り替えるよい機会になる。詳細なテクニカルな論点については官僚が答えればよい。(以前に比べ、今は官僚の「政府参考人」による答弁はかなり限定されている)。手持ちの資料にない必要な情報は担当部局からデジタルデバイス経由で政府参考人に提供すればよい。その場ですぐには調査が難しければ、(本質的に重要な論点であれば)必要に応じ調べて提出する、ということにすればよい。
 長年続いてきた制度を一気に廃止するのは政治の側からも官僚の側からも相手にされないことはわかっている。そのため、過渡期の策としては、既に元官僚の方々からも提起されている、質問の2日前通告ルールの徹底と通告時間の公開をするのがよいと思う。ただ、それだけではなく、同時に、官僚が用意するのは、文章形式の答弁ではなく、ブレット・ポイントによる論点のみとすればよいのではないか。これだけで、「てにをは」の調整にかかる労力は大きく削減される。もう「てにをは」の揚げ足取りをしている時間も、それを避けるための霞ヶ関文学を夜通し書いている時間もこの国にはない。
 メディアの国会審議の報道も変わる必要がある。失言やヤジだけを報道するのではなく、本質的な政策に関するやり取りを取り上げてほしい。言い間違いや勘違いなど誰にでもあるし、そんなことで政局になること自体が極めて形式主義的だ。
 そして、これは最終的には、国民一人一人の問題だ。(国会中継をずっと見ていることは難しいが)国民が公共政策に関心を持ち政治に関心を持つことが、国会議論の間接的な形骸化抑制装置になる。本質的によい政策提案、よい議論をしている政党・議員を選ぶ、という当たり前の実質的な民主主義を取り戻すことになる。

<最後に>

 「国会答弁作成」という国家機構の中枢で一年間のほぼ三分の二の期間ずっと行われている壮大な儀式、この国の官僚機構を蝕み続けてきたこの制度が変わることができれば、そこから形式よりも実質を重んじる空気が広がり、その他のあらゆる場面での形式主義も打破して行ける気がする。
 ここでは、国会答弁を取り上げたが、同じことは地方議会でも行われている。また、多かれ少なかれ、日本の企業でも似たような形式的作業が横行しており、おそらくこのコロナ禍のリモートワークの中でも不要な稟議が大量に回ってるんだろう。教育の現場でも、21世紀になっても、何のためかわからない権威主義的な「マエヘナラエ」が続いているし、いまだにタイツの色や髪の長さを指定する意味の分からない形式主義の校則が溢れている。
 さすがに、この強烈な危機に直面して、少しずつ、本当に必要な実質と、意味のない形式が炙り出され始め、多くの改善の動きが生まれている。このコロナ禍からもがき抜け出していく中で、元の世界に戻るのではなく、この国を長く覆ってきた、目に見えず、感染力が強く、社会を蝕むもう一つの病、「形式主義」も克服していたい。そしたら、後世、このコロナ禍もこの国のルネッサンスに繋がった、と言えるのかもしれない。そして、それは結局、一人一人が出会う場面場面での態度にかかっている。意味のない形式に直面したら、「それ、意味あります?」と言おう。

 だいぶ長く仰々しくなったけど、これは、結局、自分への戒め。あらゆる形式主義に抗っていこうという宣言。仕事で関わる方は、面倒くさいなと思わずお付き合い下さい。また、私がこんなこと書いておきながら形式主義に陥っていたら叱って下さい。

*所属する組織を代表するものではなく、すべて個人の見解です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?