”余白”をもったことばの美しさとことばが1人歩きする豊かさについて。
シャムキャッツ 夏目さん @MADO
MADOにてシャムキャッツの夏目さんの歌とことばにまつわるトークを聴いた。
夏目さんは人を食ったような無邪気さと、実直さを併せもった”かっこいいアーティスト”だった。
トークを聴く中で自分自身が使うことばについて考えさせられた。
とりわけ「余白」の重要性を改めて認識したし、「何を言うか」よりも「何を言わないか」の方がことばの可能性を飛躍させるんじゃないかということも考えた。
量にこめていたエネルギーをことばを選ぶことに使いたい
自分の話すことば、書くことばは文量が多い。僕はことばを選ぶことより、量で補完することによって伝えるコミュニケーションをとってきた。
が、「たくさんのことばを発すること」に使っていたエネルギーを「ことばを選ぶこと」に使ってみようと思わされた。
ことばが一人歩きすることの豊かさ
ことばが本来の意図や意味をかけはなれて一人歩きしていくことを極端に恐れているきらいがあったけど、その現象はものすごく豊かで多幸感のあることなんだと思わされた。
けもののトークで語られた「ただの夏」ということばが本人の意図を離れて多くの人の想いをのせて旅立っていく様は印象的だった。
どうして今の僕がこんな確信を持つにいたっているのか。それは、今日友達と話しているとき「同じ思い出や体験を共有していてもその解釈や意味合いは異なる」ということを実感したからだ。
「誰かが見ている青」が「自分の見る青」とはきっと違って見えるように、本来ことばとは発した人がどんなに支配しようとしても自然と一人歩きしていくものなんだろう。
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