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読みにくさとの闘争の果てにあったもの 『白鯨』書評

無知とは恐ろしいものだと思う。

私の選書の仕方の一つには、既に読んだ本の中に登場した書物――ないしはその本に影響を及ぼしたであろう書物のうち、面白そうなもの選ぶというのがある。

しかし大抵の場合、そういった本というのは本文中では援用的に引き合いに出される程度が常なので、当然その本に関する詳細な情報はほとんど得られない。

つまり、私が『白鯨』を手に取ったのもそういう背景があった。

1980年に第一刷が出版されたかなり古い本で、芥川賞・直木賞受賞作家のエッセーをまとめた『読書と私』という本がある。これに丸山健二が寄せた「読書不要論」に次のような文章があった。

従って、父の蔵書の中にあったただ一つの外国文学《白鯨》との出会いは、実に強烈なものとなった。[中略]そしてしまいには、私だけの聖書にまでなってしまった。[中略]この一冊さえあればほかの本は必要ないという結論に達し、現にその後パラパラと目を通した文学は《白鯨》を超えることはなかった。

『読書と私』P207(丸山健二・読書不要論)

「読書不要論」が名詮自称みょうせんじしょうするように、読んだ本のほとんどが取るに足らないつまらないものだったと語る丸山が、『白鯨』に関してだけはこのような絶大な賛辞を送っていたのである。

丸山をしてここまで言わしめる『白鯨』とはどれほどのものなのか――私の関心はこの得体の知れない『白鯨』なる書物へ多いに注がれたのだった。

そして『読書と私』の直後に読んだ立花隆の『ぼくはこんな本を読んできた』が決定打となった。一度のインタビューをするために「5メートル」は本を読むという、「知の巨人」の異名を持つ立花の本の中に『白鯨』の名が登場したのである。

こちらは丸山のように賛辞を述べるような類いのものではなかったが、一箇いっこ図書館級に本を読んでいる彼の口から『白鯨』が出てきたこと――それだけで理由は充分だった。

こうして私は楽天ブックスから『白鯨』を取り寄せた。それが世界十大小説の一つだとも知らずに――である。


1.読破には覚悟がいる

普段私は自身の記事を読者がその本を手に取る契機となるようなものにしたいと思っている。しかし今回ばかりは「この本を通読する覚悟はありますか?」と投げかけるところから始めなければならい。

ひとまず本書を手に取ったらまずは辞書を用意することだ。国語辞典だけでは足りない。漢字辞典も必ず併せて用意する。もっとも、現代には文明の利器があるからこの二つをスマホに置き換えてもよい。ただし、「手書き漢字認識辞書」のようなアプリを入れておくことを忘れてはならない。

もしも「そんなものは不要だ、我こそは知識人なり」と豪語する人があれば、それもいいだろう。もしこれを通読するまでに「辞書がほしい」と思うのが300回以内に収まるのであれば私はその人を知識人と認めていい。私はその倍は辞書を引いたからである。

本作はある目的を秘めた捕鯨船が大航海へと繰り出す物語だが、読者は航海へ出る前に語彙の大海原へと投げ出されることになる。これに耐えられぬ貧弱な読者は本書この船に乗り込むのはよした方がいいだろう。その代わり、「地上の上に安穏としているがよい」と主人公イシュメールに罵られても文句は言えない。

そして本書の読者はその語彙と同様に晦渋かいじゅうな文章にも大いに悩まされることはもはや論をたない。例えば次のような文章がある。

わたしが巨鯨族を手玉に取ろうと企てた以上は、この企てを遂行するに博引旁証いたらざるなく、その血液の最微の胚子をも看過せず、その腹腔の最大の巻束までも解き延ばし、いっさいを網羅曲尽して余蘊なからしめる決意を自らに許すことが肝要である。

『白鯨』下巻・P327

一度目を通しただけで内容の意味をとった人はいるだろうか? あるいはこの一文で知らない語彙は出てこなかったとする人はどれほどいるだろう?

この文章は要約すれば「私は捕鯨業(あるいはそれに関する学問)に手をつけた以上、どんな些細なことも捨て置かず、全てを語り尽くす覚悟を決めなければならない」という至極簡単な内容なのであるが、それがこのような佶屈聱牙きっくつごうがな文章に化けて読者を襲うのである。私を含め、おつむの足りない人間は頭を抱えずにはいられない。

しかしだからといってこの『白鯨』の翻訳が悪訳であると断ずるのは全く思慮の足らない浅薄な考えだといえよう。寧ろ内容を理解しようとすればするほど、この翻訳は実に名訳であると感じられてくるというのが私の実感なのである。

もともと読書を得意としない私とはいえ、ときには15ページを読み進めるのに3時間を要したこともあるほどの1000ページ強だ。果たしてあなたにこれを読み通す覚悟はあるだろうか。

ない?

まぁそうだろう。だからこそ私はこの記事を読む皆様に特権を与えることができるのである。〝『白鯨』を知ったかぶりできる〟という特権を。

2.選び抜かれた言葉

すでに述べたとおり、私は本書を通読するにあたって辞書を600回以上は引いてきた。しかしそうやって事細かに辞書を引いてきたおかげで気づけたことというものがある。辞書を引いていると、その語の説明としてある二文字の熟語が頻繁に登場したのがわかったのだ。

もちろんこれは同じ言葉を何度も引き直したとかそういう話ではない。なんなら私は読書において新たに入手した語彙を全てExcelにまとめているため、同じ語彙を引くという二度手間はほとんど発生しなかったのである。それなのになぜ全く同じ二文字が登場するのだろうか。

まぁあまり焦らせても仕方がない。そろそろ答えを発表しよう。その二文字は〝仏語〟の二文字である。本書の翻訳を私が名訳だと評している理由の一つがここにある。

なぜ仏語が多いのか。そもそも『白鯨』はアメリカの文学なので、仏教にはあまり通じていないはずだし、そればかりかイシュメールという主人公の名が物語るように、本書には聖書にまつわる名詞や説話が数多く登場する。

それではまるでちぐはぐではないか――そんな風に思われるかもしれない。だからこれを説明するために本書の内容に少し切り込んでいこう。

本書は主人公のイシュメールが偶像崇拝の徒で、かつ食人も厭わない野蛮人のクィークエグなる人物と邂逅かいこうし、親友となるというなんとも珍妙なスタートを切っている。

その中でクィークエグが示す偶像への信仰と、イシュメール自身の神に対する敬慕が描き出され、後には船長エイハブの異教への狂信が物語全体を暗澹とした空気に導いていくのであるが、本書はこのように宗教色を強く全面に押し出しているのが特徴とされる作品なのである。

さて、ではこれを翻訳するとなった際、その宗教色とはどのように文章へと反映されるべきだろうか?

本書はアメリカ文学なのでその正教とも言うべき宗教はキリスト教である。しかし、日本という国においてキリスト教がかなり陰の薄い存在である以上、キリスト教の用語を日本語にした訳語(聖寵、奇蹟、異言など)を用いても読者はいまいちピンとこないだろう。

だからこそ本作が醸し出す宗教色を日本人の感性に落とし込むために本書は仏語を多用しているのである。そのあまりの登場頻度はこれが意図的な行為の元になされたものであろうという思念を抱かせるには充分なものだった。

私は読書中にあまりにこまごまとものを調べすぎる癖があるが、今回はそれが講じてこのような重大な気づきを与えてくれる契機を恵んでくれたようである。

3.卓抜した描写への胸の高鳴り

私はこの作品を読んでいるとき、最近ほとんど感じることのなかったとある感覚を三度も経験した。ワクワクするというやつである。ここではその胸の高鳴りを生じたシーンの一つである鯨の解体について是非とも語らせていただきたい。

本作に登場する捕鯨船ピークォド号は鯨を捕った後に陸地へ引き返すというようなことはしない。捕った鯨はその場で解体し、必要な脂肉あぶらを切り出して船に詰め込むとすぐさま次の獲物へと向かって走り出すのである。

さて、こうなると鯨族の中でも特に巨大な抹香鯨を相手取るピークォド号が如何にしてその巨体を解体するのかという問題が生じてくる。つまり、解体する場所が無いということだ。甲板にその巨体を乗せることが不可能であることなど言うに及ばずである。

鯨の死体はぷかぷかと浮かんでいるのだからその上に大きな刃物を持って立ち、その脂肉あぶらを切り出せば良いだろうと考える人もあろうが、それは陸の人の浅知恵というやつだ。いくら巨魁とはいえ、ただでさえ蕩揺する不安定な足場がさらに油脂で覆われているのである。ろくに仕事ができるはずもない。

ではいかがするか? これに対する回答が非常にエキセントリックなものだった。

結果だけを言うならば、鯨はオレンジが螺旋状に皮を剝かれるような具合にして脂肉あぶらを剥ぎ取られていくのである。鯨の脂肉あぶらに鉤で引っかけられた綱が帆柱に括り付けられた滑車を通して揚錨機により巻き上げられ、帯状になった鯨の脂肉あぶらを天高く釣り上げていくのである。

これが済むと、孔の周りに、太く半円形に線を付け鉤を挿しこみ、いよいよ揚錨機に密集した乗組員の本隊が、蛮声を張り上げてのかけ声もろとも、巻き上げ作業を開始する。と、たちまち全船体は一方に傾き、船中のネジ釘の一本一本が、あたかも霜凍る夜の古家の釘のように頭を飛び出させ、船は震えおののき、ほばしらは驚愕のあまり空に向かったあまたび叩頭する。[中略]やがてスパッと言うすさまじい音が聞こえたかと思うと、轟く水音とともに船は鯨と反対の方向へ揺れかえり、勝ち誇った絞轆こうろくは、最初の脂肉あぶらの一片の抉り取った半円形の端を引きずりながら、眼界に昇ってくる。

『白鯨』下巻・P80

この文章の臨場感たるや本当は全文載せたいくらいなのだが、長くなりすぎてしまうのでこのくらいで勘弁してほしい。

もっとも、私にはこれが捕鯨において――なかんづく抹香鯨漁において歴史的に正しい解体の描写であるかどうかは判断がつきかねる。しかし本作が浩瀚こうかんな資料と作者本人の経験をもとに描かれていることは確かだから、あるいはこの珍妙な光景こそが確かにそこにあったものだったのかもしれない。現実は小説よりも奇なりという。

4.訳者から迸る情熱

白鯨についてWikipediaには次のような記述がある。

鯨に関する当時の知識の叙述や、当時の捕鯨技術の描写などストーリー外の脱線が多く、またイシュメイルやエイハブなど人名が旧約聖書から象徴的に引用されていることなどが、名前が知られているほど愛読されていない理由の一つである

Wikipedia「白鯨」

宗教云々については既に述べた通りなので割愛するが、「ストーリー外の脱線が多い」という点については今ここで触れておきたい。

そんなことはない。

――とは言わない。いや寧ろ全くもってその通り、一から十まで激しく同意する。本作にはあまりに脱線が多い。「きっと後述の内容の理解に資するだろうから」という趣旨の前置きが一体何度登場し、そのたびに何度私が校長先生の話を聞く学生の気分にされたかわかったものではない。そして実際それが後の助けになったかというと、校長先生の話といい勝負なのである。

また、やっと本線に戻ったかと思えば、乗組員たちが帆柱に打ち付けられたコインの意匠を順番に観察してその解釈を述べては立ち去り述べては立ち去りする意味不明なくだりが登場したりする。当然私は一体何を読まされているのかという気持ちになる。

さらにこの脱線に拍車をかけているのが「論文のような」とまで表される鯨に関する諸々の説明である。中でも「第三十二章 鯨学」と題された部分は心の底から「早く終わってくれ」と思いながら読んだ。これに比べれば鯨に関する芸術の批評なんてかわいいものだとすら思われたほどだ。

文章を綴ることにおいては取捨選択というのが肝要である。何を書くのかではなく何を省くのかに注力することが良い文章を書くコツだと言ってもいい。

しかし本書はまるでそんなことをしようとしない。既に引用した文にあるように何もかも全て洗いざらい語り尽くさないと気が済まないのである。私にとってそれは持てる知識を全てひけらかさないと気が済まない衒学ペダンチックあらわれかとも思われた。

だが、本書を読み終えた後に「訳者のノート」を読んだ私は計り知れない衝撃とともにこの考えを改めねばならなくなった。

『白鯨』が退屈な小説だとか、これは小説ではないとか評されたのは、この全編の半ば以上の頁数を占める鯨学、捕鯨学の講義のせいであろうが、もし諸君が実地にピークォド号に乗り組んでいたとしたら、もっと退屈していたに違いないのだ。

『白鯨』上巻・P555(訳者のノート)

打ちのめされた。私は辞書を何百と引きながら必死に『白鯨』を〝読んで〟いるのだと思っていた。しかしそうではなかった。私は乗組員たちの退屈を想像することすらできなかったのである。

この舌鋒鋭い指摘以外にも訳者は『吾輩は猫である』との類似という面白い着眼点から『白鯨』を語り、『白鯨』の持つ哲学的姿勢について講釈する一方で、本作の宗教描写に関する史実からの考察を加えたりと『白鯨』への深遠な理解をまるで本作の主人公イシュメールの如き饒舌さで語っている。

その熱量を窺わせる好個のものが次の一文だ。

わたしは試みに聖書に言及した箇所がどのくらいあるかを検してみた。

『白鯨』上巻・P554(訳者のノート)

Youtube御用達の「~してみた」のようなノリでさらっと片付けないでいただきたい。繰り返すが『白鯨』は1000ページを超える大著である。

良い翻訳というものには良い訳者解説がつきものと相場が決まっているものだが、これほどその作品を読んで良かったと胸打たれる訳者の文章も珍しい。これを読むために私は本書を読んできたのだとさえ思わされるほどであった。

やはりこの情熱ゆえにこの翻訳ありということなのであろう。

5.イシュメールに仕返しを

ところで本作の主人公イシュメールは自分たちが世人に感心されぬ職業だということを盾にとり、かえって陸上の人たちを揶揄するような言葉を随分と吐いてきたようだ。

だがやはり言われっぱなしというのも癪である。そこで私はこの博覧強記のイシュメールに鯨に関する知識でもって仕返しをしてやろうと思い至った。

え? なに? そいつは「仕返し」じゃなくて「意趣イシュ返し」だ? やかましい。

とにかくこの意趣返しでもって、私は本書がどのような筆致によって描かれているかを皆様に示しつつ、如何に丁寧な注釈が添えられているかについて公のものとしていきたい。

それでは、はじめよう。

***

陸地なきところにのみ真理ありとし、風下の陸地にい上げられることを厭う者、イシュメール。絶海にただ一つ竜骨を突き立て白き泡沫うたかたの尾を引き続けた幾星霜、そのうちに神の真理の暴露へひれ伏すことができたものかは知らぬが、しかし孤立無援の渺茫びょうぼうたる森閑とした凪の内府において足下はその耳を麻痺させろうになってしまったものかと疑われる。

神の遣いとまで鯨を賛美し、それが時折浜辺へ産み落とす馥郁ふくいくたる芳香に恍惚こうこつとまでなった足下が、はたしてどうしてかのものを「おしの怪物」と断じてしまったものか、これを聾とせずして釈義たらしめるものをここへ提出してみせよ。

イシュメール。あぁ哀れなるイシュメール! めしいではないとうそぶく双のまなこにそそのかされ、鯨たちが尾で会話をしているなどという妄誕ぼうたんに憑りつかれたその末に、あの万里を響く荘重なる声をただの雑音としか聞こえぬとは!

さる大音楽家たちによって紡がれる大楽曲がその低音を失うとき、いかにうららかな旋律でも軽佻浮薄に聞こえるが如く、その低音の崇厳すうごんさは推して知るべきであるところ、かように鯨を跪拝きはいした足下がなぜこの重厚な響きをばただの雑音にすぎぬとのたまったのか。イシュメールよ、いま神の名においてエッファタ(※)と唱えられよ! さすれば彼らの声を聞くだろう!

※注:新約聖書「マルコによる福音書」第七章三十四節に登場するこの語は、「開け」という意味を持ち、ガリラヤ湖を訪れたイエスが聾者の耳を聞こえさせる奇蹟を行った際の言葉としてと伝えられている。

***

鯨が言葉を交わすというのが現代の知識であるとはいえ、『白鯨』を読み通した後でならこの程度のマウントとりは許されてもいいのではないかと思うのである。

6.これを読むべきものたち

既に引用したWikipediaにあるように『白鯨』はその名声の割に読まれない書物であるそうだが、現代においてその度合いはより一層その傾向を顕著にするものと思われる。

なにせ映像作品でさえ「1話切り」される世の中である。本作が「1ページ切り」されても特段不思議なことではないし、1ページで見限るとまでいかなくともこれを読み通さないからといって非難されるような言われはないと思う。寧ろよく挑戦したものだと褒めてよいくらいだ。

ただその一方でこれを読むべきとする人がいることを私はここに表明しておきたい。それは私のような駄文を連ねる末席のものからそれを生業とするものまでを含める文筆家諸氏である。

まず既に述べたようにこの本に登場する語彙は膨大だ。これを読みとおすだけで気の赴くままに手に取った本10冊分以上の知らない言葉に触れられることが確約できる。死んだ語が並ぶ辞書を漫然と眺めるより、文章の中に生きた語をここから掬して自らに脈打つ文脈へとこれを注ぎ込みたいところではないか。

また本書の洗練された流麗な文章の筆力とそれが醸す臨場感及び説得力は「文学の力」というものの存在をきっと私たちのうちに真実たらしめてくれるはずである。そうでなければ成人男性がこれを読んで何度もワクワクしてしまう説明がつかないというものだ。

良い文章を書くにはまず良い文章に触れなければならない。そのための1冊として本書は名を連ねるに足る十分なものがあったといえよう。

ところで振り返ってみると、丸山が言う「読書不要論」の背景には『白鯨』を読み通し、感銘を受けることができるほどの地頭の良さがあったようだ。

となると、私はまだまだ読書不要論を唱える素質はないということらしい。なぜなら私の頭脳の至らないことは「訳者のノート」を読むまで本書に感銘を受けることができなかったことによって証明されてしまったからである。

だから読書不要論を説く人がいたらまずは『白鯨』を読めと言ってやるといい。それを説くに相応しくない人はきっとこれを〝読む〟ことなんてできやしないだろう。

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