〝好き〟の見つめ直しを彩る小説 『海の見える街』書評
〝好き〟なことで生きていく。そんな意味のキャッチコピーをあちこちで目にする世の中になった。
〝好き〟を前面に押し出しているという意味では推し活というのも同じムーブメントの一形態として捉えられると思う。また同様に、〝好き〟を共有し、相互に共感し合うSNSが人口に膾炙するのも、至極自然な流れだろう。
〝好き〟に理由は要らない。〝好き〟は何においても優先する。そんなイデオロギー形成の中で、果たして〝好き〟とは何なのかを真剣に考えた人はどれほどいるのだろうか。
今回私が紹介するのはそんな〝好き〟の在り方をいま一度見つめ直すことができる小説、畑野智美著『海の見える街』である。
本作は70ページほどの中編が連なった連作形式の小説で、その中編ひとつひとつが同じ場所に勤務する4人の視点によって描かれており、またこの形式をとることによって、ともすれば何気ない日常として見逃してしまいそうな諸種の事柄の中に、実はそれぞれが複雑な事情を抱えていることを印象付けている。
登場人物の4人はそれぞれ違った悩みを抱えている。しかしそれらの悩みの根幹には一貫して、自身の〝好き〟という感情への誤解と、その誤解事態に自身で気づけていないという致命的な問題が潜んでいた。
翻って、今私達が何らかの対象へ抱いている〝好き〟という感情はおそらくまやかしなどではない。それはたしかに〝好き〟なのだろう。だがまさにその感情のために私達は〝好き〟を誤解しているのである。
言っている意味が分からない?
そうかもしれない。しかしこの物語を紐解いていけばきっと私の言いたいことが伝わるのではないか――そう期待しながら、私は『海の見える街』を理解したかのような記事を、海の見えない街で書くのである。
1.同僚からはエロ親父
本田が司書として勤める図書館に、一年間産休をとった職員の代わりとして派遣社員の鈴木春香が現れる。周囲から「春香ちゃん」と呼ばれるようになる彼女は、身だしなみ、本の扱い、知識、どこをとっても図書館の職員としては相応しくない人間だった。
本田の同僚である女性職員の日野はそんな春香のことを激しく嫌悪した。ときには怒鳴り合いの喧嘩も起こす。誰にでも平等に優しくできる本田でさえ、嫌うまではいかなくとも彼女の扱いにはほとほと頭を悩ませていた。
こんな具合に、本作は春香の登場によって搔き乱される図書館の日常という、悪く言えば地味、良く言えば純文学然とした物語になっている。
しかし既に述べたように、本作の魅力は物語それ自体というよりは、各編で視点が入れ替わることにより、そのごくごく小さな世界の見え方が一変するというところにある。
例えば視点の切り替えによって如実に評価が変わるのが館長だ。まずは本田の視点から見た館長の描写を見てみよう。シーンとしては、春香が初出勤して、自己紹介を終えたところである。
要約すると、エロ親父というのが本田が館長に下している評価ということになるだろう。
対して、1年の契約期間がそろそろ満了となりそうな頃の春香から見た館長の評価はこうである。
エロ親父が春香の前でだけ良い顔をしていたわけではないというのはちょっと後で説明するとして、とにかく一人の人物への評価が少し視点を変えるだけでこれだけ一変してしまうのである。
私たちは同質者の輪の中にいるとしばしばある能力を持つことが当たり前のことのように思い込んでしまいがちだ。しかし元来その輪の外にいる春香の視点に立ち返ってみると、それは全く当たり前のことなどではなく個人がもつ良さとして浮かび上がってくる。
とはいえ、これは流石に見え方が変わりすぎている感もないではない。本作の真骨頂はこんな画然とした他人の評価の違いよりも、もっと微妙で慎重を要するところへのアプローチ――つまり〝好き〟という感情への視点を変えたアプローチにこそある。
恋愛対象としての〝好き〟がわからない本田。そんな彼のことを〝好き〟だと信じて疑わない日野。そして強烈な〝好き〟で自分を飾る春香――
何気ない日常の中に潜む〝好き〟の微妙な歪みを汲み取ることで、読者は徐々に自身の〝好き〟を見つめ直す材料を手にしていくことができる。
なので次からはその材料の一端をご紹介しよう。
2.それって好きじゃない理由になりますか?
さて、エロ親父こと館長の名誉回復のため――というわけではないが、もう少し問題児、春香の視点から物語を見ていきたい。
彼女は当初、本を放り投げるようなことを平気でする人間だった。本を日常的に読む習慣がないだけならともかく、まんがや映画ですら流行っているもの以外興味が持てない。ましてや、そういったものが好きなこと自体を恋人や友達がいないがゆえの現実逃避なんだと見下していた。
しかし図書館で働くことを通してそういった考えが変わっていたことが、春香の視点をとることで初めて明かされる。
ここには本田や日野の視点からは見えなかった彼女の秘かな努力が開陳されている。
一方で、彼女の努力を唯一見抜いている人物もいた。
契約終了まで2ヵ月を切った時、契約のことで春香は館長と膝をつき合わせる。その時のやり取りが以下である。
おめでとう館長。これであなたもエロ親父からただのサボり魔へと昇格だ。
それはさておき、重要なのはここに表出している春香の姿勢だ。彼女は疲れを感じながらも読書や映画鑑賞を続けていた。本田や日野のようになれたら、と努力していた。つまりそれは彼女が「彼らの世界」に憧れたから――「彼らの世界」を〝好き〟になり始めていたからとは考えられないだろうか。
たしかに圧倒的な〝好き〟の前では、疲れなどは感じないのかもしれない。しかし疲れるというのは、それが嫌いということだけに端を発するわけでもない。疲れを感じることの中にも〝好き〟は潜んでいる可能性がある。その気づきを得ることが、何よりも大切なことなのだ。
3.〝好き〟が生む最大の喜び
ここまで何とか隠し通してきたのだが、そろそろ皆様に白状しなければいけない事実が一つある。実はこの小説、恋愛小説なのである。
なぜ私がここまでこの事実を隠してきたかと問われれば、それは〝好き〟を恋愛という意味においてのそれに矮小化して考えてほしくなかったためだ。本作のフォーカスする〝好き〟は既に述べてきたように、恋愛に限らず多様な形をとっているのである。
しかし恋愛小説であることを明かした以上はこの点についても語っておかねば本作の紹介として言葉足らずになってしまうだろう。だから私はもう一つ、皆様に重大な事実を明かさねばならない。
私は冒頭で「4人はそれぞれ違った悩みを抱えている」と述べた。これは本田、日野、春香、そしてエr……ではなく、サボり魔の四人のことを指している――わけではない。実は四人目はサボり魔ではなく、本田の同期である松田という名の児童館で働く男性職員のことなのだ。
彼は子どもに好かれ、親からの信頼も厚いまさに児童館にぴったりの人材だった。アルバイトが引き起こした不祥事で警察沙汰になったときも、どうすればいいかわからずあたふたする職員達の先頭に立ち、対応に当たった頼もしい人間でもある。
しかし、そんな状況を傍から眺める本田は秘かにこんな感想を抱いていた。
松田には何らかの秘密がある。
ところで皆さまはロシアの作家、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』をご存じだろうか?
ロリコンという言葉の由来ともなっているこの小説は、少年時代にアナベルという少女と恋仲になった主人公が、彼女が病死した後もなおその面影を追い求め、30半ばを過ぎてついに12歳の少女ドローレス・ヘイズ(愛称ロリータ)を見出し、彼女を執拗に追いかけるストーリーとなっている。
急に『ロリータ』を持ち出したからもうお察しのことかと思うが、つまり松田はそのロリコンなのである。それも勤務中に女子中学生の画像を見漁るほどの筋金入りだ。
しかしその「ヤバさ」がある時日野にばれてしまう。そして釈明に苦しんだ松田はこんな言葉を口走った。
これを聞いた日野は、後に本田に対して「過去に何かあったってことですよね?」と相談を持ち掛けている。つまり、彼女はそのように受け取ったわけだ。
実際、松田の過去にはかなり衝撃的な事件があった。しかしその詳細はここでは割愛するとしよう。大切なのは常に過去よりも未来のことなのだから。
松田のロリコン発覚から暫くの間は、主に日野が松田を避けたために二人は全く言葉を交わすことができなかった。しかしお互いがお互いを意識し合っているのは傍目にもわかる。だから先に痺れを切らしたのは周囲の人間である本田と春香だった。同期の本田はともかく、春香が声を上げたのは、ひょんなことから日野との関係が犬猿の仲から親友同士へと変わっていたからである。
夜の海を見ながら松田と日野は話した――というより、松田の打ち明け話を日野が聞いた。一通り話し終えた後、「館長に言ってもらっても構わない。覚悟はできてる」と言葉を添える松田に、日野はこう言葉を返す。
松田は「ありがとう」と伝え、そして思う。
SNSで〝好き〟を共有する現代において、同質者間での共感の喜びばかりが強調される世の中だ。しかし〝好き〟が生む真の喜びとは、その〝好き〟を同質者以外の誰かに理解してもらえたときにこそ感じられるものなのではないだろうか。
そしてその喜びに気づいた松田の、自分はロリコンだから普通の恋愛なんてできないんだという諦念が――その視野狭窄が、徐々に外界に向かって開けていく。
何かが変わる気配がする。もしかしたらという期待が生まれる。新たな〝好き〟がそこにある。しかし、物語の歯車は狂っていく――。
予め断っておくが、本作には松田がたどる結末は描かれていない。しかし読者がごくごく簡単な『ロリータ』のあらすじさえ押さえていたならば、そのいきつく先は容易に想像がつくことだろう。
一体何が彼の運命を狂わせてしまったのか――きっと読者はそんなことを考えずにはいられない。
4.〝好き〟を見誤らせるのは〝好き〟
本記事の導入で私は「〝好き〟という感情ゆえに〝好き〟を誤解している」という趣旨を述べた。
私がここで意味したかったのはつまり、〝好き〟という感情のほんの一面でしかない激しい感情の昂りにのみフォーカスした結果、私達は〝好き〟の多面性に盲目になってしまってはいないだろうかということである。
推し活をする人たちを外から見ていると、その熱狂ぶりは本当に凄まじい。推しを持たない私からすればそれほど熱中できるものがあるというのは誠に羨ましい限りである。
しかし、わかりやすくて強烈な〝好き〟は劇薬でもある。
これはファンが転じてストーカーになるとか、ガチ恋勢になって生活を破綻させるまで金をつぎこむとか、そういう狂気に陥ることだけを指して言っているのではない。それは〝好き〟と感じる対象を持つ全ての人が、程度の差こそあれ平等に舐める毒なのである。
本作には「好きじゃない」という言葉が頻出する。もちろんこの言葉は文脈によって大きくその意味を変えるが、しかしその中には自身の強烈な〝好き〟に照らしてそれよりも劣っているからという理由で「好きじゃない」と判断しているものが確かに含まれている。
私達もしばしばこの判断基準を用いて自身の〝好き〟を判断してはいないだろうか?
恋愛小説でよく見るパターンの中には、なんでこんな人をと思いながら、それでも相手に魅かれていくという形式がある。付き合っている人が既にいて、自身では確かにその相手が〝好き〟だと思っていながら、なぜか違う人に魅かれれていくという形式がある。では、なぜこれらが恋愛の普遍的なパターンとして今なお描かれ続けるのだろうか?
それはきっと私達が自身の〝好き〟を誤解しがちだからなのである。恋愛とは、それに気づかされることが最も多いシーンの一つなのであろう。
〝好き〟が幅を利かせる現代において、私達は今一度〝好き〟を見つめ直す必要があるのではないか。『海の見える街』を読むことは、きっとその一助になるはずである。
だが、最後に一つだけ断っておく。
もしあなたが本作を読んで新しい〝好き〟に目覚め、今付き合っている人と別れることになったとしても、私は責任を負いかねる。
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