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アメリカ先住民の大自然に生きる哲学 『リトル・トリー』書評

芥川賞、直木賞、本屋大賞――文学において○○賞と名のつくものは多い。

しかし大体の場合において文学はその賞を冠した瞬間が最も繁栄を極め、あとは先細って古本屋の角にでも押しやられるというのが通例となっている。次に注目されるのはそれを書いた作家が死ぬ時だ。全く現金なものである。

だからどんな高名な賞を受賞した作品でも、古本屋ではついぞ売れなくて廃棄となったり、図書館でただその背表紙をいたずらに褪色たいしょくさせるだけの日々を送るなんということが起こりうる。今回私が手に取った『リトル・トリー』もその類いであったかと思われた。

本書も以前書評を書いた『西の魔女が死んだ』同様に図書館のリサイクル本からの拾いものだったのだが、いざ本を開いて驚いた。それを開くことに抵抗感があったのである。そればかりか目立つ汚れは一つもないし、ページのよれもなく、リサイクル本の印が押されている以外、紙の積層もまったく綺麗なものときた。これがほとんど誰にも読まれずリサイクルに出されたものだということがわかる。

ところが保護ビニールで覆われて取り外せなくなってしまった帯を見ると、随分といろいろなことが書いてある。

・アメリカでベストセラー・映画化も決定!
・第一回全米書店業協会ABBY賞受賞作品
・全国学校図書協議会選定図書
・日本図書館協会選定図書
・厚生省中央児童福祉審議会推薦文化財

いくら海外の文学とはいえ、これだけ日本でも評価されている本が図書館で全然日の目を見なかったということは、結局のところ文学が流行り廃りに支配されがちということを如実に物語っているようでなんとも微妙な心持ちにさせられる。

だから文学というものは一般に〝再発見〟されなければならないものなのである。というわけで、今回は私のした〝再発見〟を皆様と共有していきたい。

なお、帯に記されたABBY賞の選考基準はただひとつ、「それを売ることに書店員が最も喜びを感じた本」なのだそうだ。


1.彼らにとって学ぶということ

本書の邦題は既に示しているように『リトル・トリー』だが、実はその原題は『The Education of Little Tree』となっており、直訳すると「リトル・トリーの学び」になる。とすれば、本書にとっての学びとは何なのか触れずしてこれを語ることは出来ないだろう。

本作の主人公の少年は5歳で両親を亡くし、その後インディアンであるチェロキーの血を引く祖父母へと引き取られる。彼らは白人に押しつけられた記号に過ぎない名前よりも、自然物に因んだその人の特徴をよく表すインディアン・ネームを愛し、少年には小さな木リトル・トリーという名を与えた。

祖父はリトル・トリーを連れて歩き、山で生きることを教えた。彼は「男は、朝になったら自分の意思で起きるもんじゃ」と言いながら、早朝出かけるときには敢えて物音を立てたり大きな声で話したりしてリトル・トリーの起床を促したりする人だった。

早朝山の中に仕掛けた罠を確認すると、六羽の山七面鳥が捕まっていた。しかし祖父は「わしらには三羽もあれば足りるな」とその選定をリトル・トリーに任せることにする。

「おきてというものがあるんじゃよ」祖父は静かに話を続けた。「必要なだけしか獲らんこと。鹿を獲るときはな、いっとう立派なやつを獲っちゃならねえ。小さくてのろまな奴だけ獲るんじゃ。そうすりゃ、残った鹿がもっと強くなっていく。そしてわしらに肉を絶やさず恵んでくれる。

『リトル・トリー』P25

リトル・トリーは鷹がウズラを捕らえるのを見たときに祖父に教えられたことを忠実にこなし、祖父は「もしお前がリトル・トリーでなかったら、小さな鷹リトル・ホークと呼ぶところじゃがな」と褒め称える。すると、リトル・トリーは「ぼくはおきてを学び取ったのだ」と誇りを感じるのだった。

このように、彼らは教科書が示す紋切り型の勉強を学びとしているのではなく、自然の中でそれが示すものを感得していくことを学びと考えているのである。

そしてこの姿勢は彼らが白人たちの世界にあっても崩れない。

あるときリトル・トリーは町中で出会った自称クリスチャンに子牛を「よくお前になついているから」と言って売りつけられる。その子牛は家へ連れ帰る道中で死んでしまった。

そのとき一緒にいた祖父の言が以下である。

なあ、リトル・トリー。おまえの好きなようにやらせてみせる、それしかお前に教える方法はねえ。もしも子牛を買うのをわしがやめさせてたら、おまえはいつまでもそのことをくやしがったはずじゃ。逆に、買えとすすめてたら、小牛が死んだのをわしのせいにしたじゃろう。おまえは自分でさとっていくしかないんじゃよ

『リトル・トリー』P144

つまり、彼らにとって学ぶこととは経験の中から自分自身で勝ち取っていくことを意味しているらしい。彼らは経験の大切さを良く知っていたのだ。

しかし私たちの世の中には「百聞は一見に如かず」という諺があってなお経験の重要さを知らない人がいるらしい。

たとえば、賭け事には「ギャンブラーの誤謬」というやつがあるが、これは随分と皮肉な名称ではないだろうか。ギャンブラーは経験を積んでいるのだからそのような陥穽には陥らないというのがものの道理なはずなのに、どういうわけか彼らがそれにひっかかって大金を失ったりするのである。

そういえば最近どっかの焼きそばみたいな名前のギャンブラーがある野球選手の口座から26億円もかすめとったという事件があったようだ。おそらく彼も経験から学べる人間ではなかったのだろう。つまり彼はリトル・トリーよりも劣っていたのである。5歳児以下ということだ。まだまだママのおっぱいが恋しいお年頃に違いない。

2.彼らにとって大切なもの

では、前述のような学びの姿勢を有する彼らが大切にすべきだと考えているものとは何であろうか。それを知るヒントはチェロキーの歴史の中にあるように思われる。

チェロキーは1838年から翌年にかけて彼らの住んでいたところから1300キロも離れた地まで強制移住させられ、その道程の過酷さに全体の三分の一にあたる4000人の死者を出したという凄惨な歴史を持っている。

しかしこのときのチェロキーたちは誰一人として白人の用意した幌馬車には乗ろうとしなかった。そればかりか、死体ですらもその中に入れることを拒んだのである。

チェロキーの人たちはもはや全てを奪い尽くされていた。だが、なにかを保ちつづけていた。それは見ることも、着ることも、食べることもできない何かだ。

『リトル・トリー』P74

さて、これを念頭に置きながら話をリトル・トリーの方へと戻そう。

リトル・トリーはあるとき町中ではだしの女の子と出会った。祖母にそのことを話すと、祖母はインディアンの伝統的な靴であるモカシンブーツをこしらえてくれたので、リトル・トリーはそれを女の子へと贈った。

この女の子の家族は小作農といって、人の土地で働かせてもらってやっと飢えをしのげるかどうかという生活をする人たちだった。だからただの靴といってもその価値はばかにならない。

靴をもらった女の子は喜んだ。しかしその父はそうではなかった。女の子が靴をもらったことを知ると激怒し、彼女の足と背を木の枝で泣き叫ぶほど鞭打つと、その靴をもぎとってリトル・トリーへと突き返した。

「おれたちはほどこしなんか受けねえ・・・・・・だれからもな・・・・・・異教徒の野蛮人からなんて、とんでもえや!」

『リトル・トリー』P158

現代日本人からすると理解に苦しむ言動だと感じられるかもしれない。というより寧ろ「親切にしてやったのになんだあの態度は!」と怒りを露わにする人が大多数を占めるだろう。

しかしリトル・トリーの祖父の反応は私たちのそれとはまるで違っていた。

わしはあの小作人を憎んじゃおらんよ。あんなやりかたはどうかと思うがな。誇りがあいつの全てなんじゃ。

『リトル・トリー』P158

祖父のその態度はおそらく、昔チェロキーの人たちが最後まで守り通したものと同じものを守ろうとする人間への敬意だったのだろう。そしてなにより、この点において祖父には白人とインディアンの別はなかったのである。

彼は気高い〝誇り〟こそ持ってはいても、狭量な〝プライド〟というものは持ち合わせていなかったのだ。

なお、これを先に登場した焼きそば君の場合に当てはめるなら、「〝誇り〟は持ち合わせていなくとも、〝ホコリ〟は大量にかぶっていた」という具合になるだろう。そりゃぁ叩けば出てくるわけである。

3.白人たちの中で生きる

リトル・トリーの祖父の家系は白人たちの世界においてトウモロコシでウイスキーを作り、それを売ることでなんとか生計を立てていた。

しかし、リトル・トリーの少年時代というのは、かの悪名高き禁酒法が施行されていた時代だったのである。リトル・トリーたちにとってそれは娯楽を奪われたどころではない死活問題となっていた。

あるとき、リトル・トリーは山で白人の大人に酒を密造しているのではないかと疑われて追い回されたことがあった。彼は後にそのことを振り返って「一番怖かった」と表現している。

山の人にとって蒸留器をたたきこわされることがなにを意味するのか、平地の人にはわからない。シカゴの住民にとってシカゴ市が焼け落ちるのと同じくらい最悪な事態なのだ。

『リトル・トリー』P121

もし平地の人に(とりわけ政治家たちに)インディアンが酒を密造しているなどと知れたらどうなるだろう? きっと彼らは「インディアンは法を犯す野蛮人だ!」と口角泡を飛ばし、インディアンが白人社会の中で生きるために唯一できるまともな商売を取り上げてしまうに違いない。チェロキーがそれをしなければ白人の世界で生きていけないことを彼らはまるで〝理解〟していないのである。

いいか、お前はものごとをきちんと理解しなきゃいかん。たいていの人は面倒だから理解しようとせん。それで自分の怠け根性を隠そうと、やたら言葉を吐き散らすんじゃ。おまけに他人のことを『役立たず』と決めつける

『リトル・トリー』P159

偏見とは〝理解〟を妨げるもののことを指すらしい。

そしてこのことは、リトル・トリーが白人たちの余計なお世話でもって愛する祖父母から引き剥がされ、孤児院に収容されたときのエピソードがもっと明確に示してくれる。

孤児院で勉強・・をさせられていたリトル・トリーは、先生が二頭の鹿が写った写真への解釈を子ども達に求めたとき、周囲が「じゃれている」とか「猟師から逃げている」などのような見解を示す中で次のように言った。

「鹿はつるんでるんです」とぼくは言った。「だって、雄鹿が雌鹿のうしろから跳びついているんですから。それに、木ややぶのようすを見れば、鹿が交尾する季節だってこともわかります」

『リトル・トリー』P297

リトル・トリーはものごとをよく〝理解〟していた。ただそれだけのことだった。しかしこれを聞いた女教師はヒステリーを起こした。

「まさか・・・・・・まさかこんなにけがらわしとは・・・・・・な、なんてけがらわしい・・・・・・このチビの私生児めが!」

『リトル・トリー』P298

後にこのことを知らされた院長はリトル・トリーを血塗れになるまで鞭で打った。彼も女教師と同様に――また、その頭の毛と同様に、〝理解〟が足りていない人物だった。

ときに、本書はリトル・トリーを主人公としながらも彼の自我の表出した文章がかなり少ないのが特徴的だ。それは彼の純粋無垢さが現実をありのままに受け入れる様子を見事に描き出すものでもあるが、一方でリトル・トリー自身がどうしたいのかということにをほとんど私たちに教えてくれないという性質も併せ持っている。

しかしこの無理解の人たちに囲まれた孤児院の中にあって、この本の中では唯一と言ってもいいリトル・トリーの自我が表出する。それは「帰りたい」という心からの願いに他ならなかった。

4.宗教の価値

リトル・トリーと祖父母は毎週日曜日に教会へ通っていた。しかし彼らがクリスチャンであったかというと、どうもそうではないようである。

ある日、牧師のことを「○○師」と呼ぶと即座に地獄行きと考える一派が、逆にそう呼ばないと地獄行きだと考えるある人物と口論になった。彼らは同じ聖書を引きながら、全く違う解釈を戦わせていた。結局彼らは教会の庭で殴り合い寸前に至り、周りに引き止められるという始末になる。

リトル・トリーがこのことを祖父に伝えたところ、彼は次のように言った。

そんなくだらんことで言い争っている馬鹿どもとおんなじに神様も了見が狭いなら、天国だって住む値打ちはなさそうだ

『リトル・トリー』P242

この言葉が暗に示すように、彼らは神を信仰しているわけではないのである。

では何のために教会に行くのかというと、それはそこに行けば他の場所に住む同族の一人と会うことができるからだった。そしてこのことは、その同族が亡くなってしまった途端に彼らが教会に行くのをやめてしまったという事実によって明瞭に証拠づけられるだろう。

彼らは神という概念上の存在には無関心だった。その価値観を決定的に裏付けるのが祖母がリトル・トリーに教えた次の言葉である。

人は理解できないものを愛することはできないし、ましてや理解できない人や神に愛を抱くことはできない。

『リトル・トリー』P68

〝理解〟をしようとしない人が愛を持てないことは既に散々見てきたとおりである。

とはいえ、彼らに全く神と類似の概念がないのかと問われると、実はそうではない。彼らは自然を「母なる大地モ・ノ・ラー」と呼び、その知恵がおきてを教え、森こそが天国なのだと考える。

つまり、彼らにとって自然とは〝理解〟できるものなのである。本書の中にたびたび登場する自然と対話するシーンは、彼らにとっては比喩でもなんでもなく本物の対話として描かれる。

現代に生きる私たちはそれを「馬鹿馬鹿しい」と感じるかもしれない。だが、それこそが〝理解〟が足りないということなのだ。彼らはそんな私たちのことをよく〝理解〟している。

リトル・トリー、いいね、こんなことはしゃべっちゃだめ。世間の人にしゃべっても何にもならない。世間っていうのは白人のものだからね。でも、おまえは知っておかなくちゃいけない。だからわたしはしゃべったんだよ。

『リトル・トリー』P109

なんだか打ちのめされた気分になる。私たちが彼らを知るよりも、彼らの方がよっぽど私たちを知っているらしいのだ。

5.是非とも加筆されるべき注釈

ここまで非常に意味深長なリトル・トリーの世界と白人の世界の違いというものを見てきたわけだが、あるいはその内容に感心せず「これは小説でフィクションだ。真に受ける必要はない」などと言って、現代社会一般の価値観を墨守ぼくしゅしようとする人たちももしかしたら出てくるかもしれない。

そこで、私はそんな頑固な人たちに次の前書きを提示しよう。

当初『ぼくと祖父』というタイトルを予定されていた本書は、東チェロキーの山中における祖父母との生活をつづった自伝的な回想録である。
[中略]
アメリカ先住民の生活を研究している学生たちは、本書が神秘的でロマンチックであると同時に、きわめて正確な記録であることを知った。

『リトル・トリー』P2

そう。これは著者フォレスト・カーター自身の経験に基づく自伝的な小説だったのである。

この言にもう少し説得力を加味する試みとして、本書が確かに現実に即していると感じられるエピソードを――特に、ある事情を知らなければ取るに足らない日常のやり取りに過ぎないと見逃されるであろうエピソードを紹介したい。

あるとき、祖父とリトル・トリーは車に乗った貴婦人から道を尋ねられる。そのときのやり取りは次のようなものだった。

婦人はもっと大きな声で叫んだ。「チャタヌーガへ行く道を教えてくれるの? どうなのよ?」
「もちろんでさあ、奥さん」
「なら、早く教えてよ」
「さあてと、まずもってあんたら向きがまちがっとるよ。東に向かっとるが、西に行きたいんじゃろう? けどな、真西じゃぁねえ。ほんのちょっぴり北寄りにな。
[中略]
「あんた、まじめなの? 方角なんかあてにならないわ。まっすぐチャタヌーガへ行く道がどれかって聞いてるのよ」
祖父はびっくりしてからだをまっすぐに起こした。「西へ行く道ならどれでも――ただし、ほんのちょっぴり北寄りということを忘れんようにな」
「あんたたち、なんなの? よそ者の二人連れってわけ?」

『リトル・トリー』P62

本書は全編を通していくつかの注釈を添えてはくれているのだが、この部分について何も注釈が添えられていないのは実に残念だと言わざるをえない。そしてこのために、この意味深いエピソードを素通りしてしまった人がどれほど出てしまったことだろう。

人類学において、ある種の先住民や原住民の中には絶対方位感覚・・・・・・とも呼ぶべき能力を獲得している人たちのあることが実際に証明されている。これは方位磁針によらず、方角のおおよその見当がつくという能力のことで、これは見ず知らずの土地でも大きく狂うものではないことから、何かしらの物標を目印に方角を判断しているわけでもないことがわかっている。つまり、彼らには方角が何にもよらず認識できるのである。

しかしこれを読む皆さまがそうであるように、そのような感覚は私たちの中には存在しない。だから婦人は「方角より道を教えろ」と言うのだが、リトル・トリーの祖父がそれに困惑せざるをえなかったのは彼が十中八九絶対方位感覚なるものを持っていたからだと考えられるのである。

さて、この事情を知った後でなら、一般社会の感覚に照らして大なり小なり奇妙に思われる事象を数多く記述している本書が「きわめて正確な記録」と言われていることにも、少しは納得がいくのではないだろうか。

6.樽の中で生きるべきか?

本記事の導入で私は「文学は〝再発見〟されなければならない」と述べた。

しかし、もしこの『リトル・トリー』が現代において〝再発見〟されたらと仮定してみると、私はある一抹の不安を覚えずにはいられないのである。

その不安とは、本書が懐古主義ないしは原始主義を訴える人たちにとっての教典、あるいは道具として扱われてしまう可能性への危惧である。

彼らがこれを読んで感銘を受けるだろうこと自体は大いに歓迎されなければならない。しかし、ひとたび彼らが本書を引用して「人間は本来こうやって自然の中で生きるべきなんだ」というようなことを言い出したのなら、私はそれを途轍もない軽蔑の念でもって眺めるだろう。

本書が教えてくれるのはチェロキーが大自然から学びとった〝生きる姿勢〟であり、言うなれば彼らの哲学なのである。大昔の高名な哲学者がいかに優れているからといって「彼らがしていたのと同じ生活をするべきだ」と言う人がいないのと同様に、本書が示す哲学に大いに学ぶところがあるとしても、それは大自然へ回帰することを推奨するものではない。

裏を返せば、そのような主張をする人は「ディオゲネスの哲学を研究する人は樽の中で生活しなければならない」と言うのとほとんど変わらないことをのたまっていることになる。全くもって馬鹿馬鹿しい限りだ。

しかしそれでもなお本書を懐古主義の教典に祭り上げようとする人が出るかもしれない。だがリトル・トリーの祖父が仮にそのような人たちを見たとしたら、きっと「余計なお世話だ」と言うに違いないし、また彼らを「淫売のせがれ」と罵ることだろう。

「淫売のせがれ」というのは新しくできた悪口だから、おばあちゃんの前では絶対に使っちゃいかんぞ

『リトル・トリー』P142

辞書から言葉を学ぶリトル・トリーにあまり感心しなかった祖父も、こういう言葉だけは何故か意欲的に取り入れていたのである。

結局、彼らも人間であるということに違いはないということだ。


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