現実に疲れたあなたへ贈る一休み 『西の魔女が死んだ』書評
読書をする人には意外と「何度も読み返した」と口にする本のある人が多いらしい。
しかし時間を無駄にしたくないという貧乏性のせいからでもあるのだろうが、どうも私にはそういう本が無いようだ。そしてこれを自覚する度に私の脳裏にはこんな言葉がちらつくのである。
私は自身を「読書家」として認知してほしいなどとはちっとも思わないのだが、そんな風に開き直ってもこの指摘の本質からは逃れられないように思う。
もっとも、これに抗するために何か繰り返し読む本を用意するなどというのは全く滑稽話にすらならない愚昧であるが、しかし何かを再読するという経験をしておかなければきっといつまでも貧乏性に取り付かれたままでい続けるような気もしていた。
そんな折に偶然目に留まったのが梨木香歩著『西の魔女が死んだ』だ。
これはたしか私が小学生の頃に母に奨められて手にした本だったはずだが、最近になって無料で提供されるリサイクル本の中にこれを発見したので、私は思わずそれに手を伸ばしていた。単なる偶然にすぎぬ事象に何かしら意味を見出そうというのは、なんとも奇妙な人間の性である。
さてはて本書は私の古典になり得るものなのか否か。どこか懐かしさを感じつつ手に取ったこれについて、今回は語っていきたい。
1.これは〝療養〟じゃなくて〝一休み〟
転地療養という言葉はサナトリウムという施設がなくなった現代においてもうつ病やストレスからくる心身症などに対する治療法としては有効と目されている。
本作の主人公であるまいも諸種の事情から学校に通えなくなり、親の配慮で田舎の祖母のところへ預けられる運びとなっていた。まさに、転地療養というやつである。
しかし形式上はそう呼ぶことが可能だとしても、こんなしゃちこばった言葉はこの小説には随分不似合いな感がある。
新緑豊かな森を想像してみて欲しい。その中に分け入っていく慎ましい小道がある。そこをいくと、大きな樫の木を中心に、小道や草花、庭木が囲っている庭が見えてくる。そしてその奥に「西の魔女」こと、まいのおばあちゃんが住む家が建っている――。
随分とファンタジーな光景ではなかろうか。ヘンゼルとグレーテルが彷徨の果てに見つける家がお菓子の家でなかったならば、きっとこんな風だったに違いないとさえ思われるほどだ。
して、そんな家でまいが送る生活というのがこれまた牧歌的で、どこまでものどかなものなのである。鶏が生んだ卵と畑で採れる野菜でサンドイッチを作ったり、野に行っていちごをバケツ一杯に摘み、それを砂糖と一緒に大鍋で煮てジャムにしたり――まさにスローライフとはかくありなんといった感じである。
まるで現代社会の喧騒から離れて霞を食うような――しかしそれでいてどこか懐旧の念を生じさせ、羨望の眼差しを向けたくなるような――そんな生活の空気を、本作はそこはかとなく漂わせている。
そしてその心地よい安らかな空気に包まれた時、読者はまいが〝療養〟しているわけではないのだということを自然と理解するだろう。彼女はただちょっと〝一休み〟しているだけなのである。
2.あなたはゲンジさんですか?
まいは母親がこんな風に話しているのを聞き、「それは認めざるをえないわ」と一人ベッドの中で呟く。
まいはとても感じやすい女の子だった。
……。
今この一文についてちょっと変な解釈の仕方をした輩がいるらしいな? だとすれば君こそまさにこの物語の静謐な空気を汚すにふさわしい存在だ。「西の魔女」の家の近くに住み着き、女性の裸体が写った雑誌でまいを不快にさせるこの物語の汚点ことゲンジさんとはあなたのことを指すに違いない!
え? 卑怯?
わざわざ改行を入れ、しかも「感じやすい」という言葉を使ったお前が悪い?
なるほどなるほど。「それは認めざるをえないわ」。
――閑話休題。
兎にも角にも問題はこのゲンジさんである。この男はまいがおばあちゃんの家に着いたその日に彼女と出会い、そして次のようなやり取りをする。
初対面のやり取りがこれなのである。まいが憤慨するのも致し方ない。
しかし、ここにゲンジさんの物語上における役割が表出している点については注意を払っておかなければならないところだろう。
先にも述べたようにこの小説が描き出す世界は、どこか遁世的な世俗を離れた感覚を読者に想起させる。しかしその安息へ野蛮にも世俗に通ずる風穴を開けに来るのがゲンジさんなのだ。「ええ身分じゃな」という発言はまさに、彼が世間の代弁者であることを如実に物語っていると言えるだろう。
だからこそ、まいはことあるごとにこのゲンジさんという卑しい世俗との仲立人に心を乱すことになる。そしてその度に彼女は大好きなおばあちゃんに慰められるのであるが、それでも彼女のゲンジさんに対する忌避感は一時的になりを潜めるだけで消えることはない。そして読者もまた、彼女と同様にこの男に対する嫌悪感を次第に募らせていく。
そして決定的なことが起こる。
まいはゲンジさんがおばあちゃんの土地を奪うため、その境界を破壊しているのを目の当たりにしてしまうのだ。
3.この世に魔法は存在するのか?
さて、先にちょっとだけ「西の魔女」がまいのおばあちゃんを指していることには触れておいたが、しかしなぜ「魔女」なのかについてはまだ説明をしていなかった。
まいがちょっと〝一休み〟をしにおばあちゃんの家を訪れた二日目の夜。おばあちゃんはだしぬけに「魔女」の話を始める。ファンタジー世界のそれほどではないけれど、この世には不思議な力というものがあって、それによってまいの曾祖父は助けられたんですよと語る。迷子になった曾祖父を曾祖母がテレパシーのような力で導き、助けたのだと。
これに対しまいは半信半疑になりつつも、しかし大好きなおばあちゃんが語るその話に徐々に興味を示すようになる。「それ、自分にもできる?」と尋ね、「相当努力しなければなりませんよ」とおばあちゃんが答える。こうして西の魔女による魔女レッスンがはじまり、「基礎トレーニング」と称した規則正しい生活がまいに課されるのである。
さて、ここまでのやり取りをひねくれ者かつ現実主義者の私なんかが見ていると、「おばあちゃんもうまい口実を作ったものだな」などという斜に構えた理解をしてしまいがちである。この物語の舞台が現実に則したものとなっていることもまた、そういった考えを助長するうえで一役買っているようだ。
だが、この物語の結末はそんな私たちに対して挑戦的な笑みを投げかける。それは西の魔女が死んだ後に起こった出来事だった。
実にずるい書き方だ。あまりにどっちつかずすぎる。明確に用意された二通りの解釈は、まるで「あなたはどっちの立場ですか?」と投げかけているようだ。
そしてこの段に来ると、私を含む現実主義者たちは呻吟せざるをえなくなる。なぜなら、「気づかなかっただけ」だと言い切ってしまうとこの小説が途端に味気なく感じられてしまうし、何よりそれが世間一般の――つまりゲンジさんと同じ立場をとることになってしまうのに気づかされてしまうからだ。そう。あれほど嫌悪感を抱いた対象と同じ立場――である。
だから私はこう思いたい。
本書の読者がたとえ現実主義者だったにしても、魔法を信じて努力し、成長したまいを知った後でなら、そのような摩訶不思議な力が存在してもいいんじゃないかと考えても、そこまで恥を感じる必要はないのではないか――と。
4.再読の意味
ちょっとここで私が本書を読み返す前にこの物語について覚えていたことというのを内省してみたい。
ジャムづくりをしていたこと。いかがわしい本に主人公が気分を害したこと。鶏が何かしらの獣に襲われて死んだこと。そして結末――。
どうやら、「魔女」に関する内容がほとんどすっかり抜け落ちていたようである。
しかし一体これはなぜなのか。
やはり結末の〝どっちつかずさ〟が当時小学生の私にはあまりに大味すぎて、もやもやとした感じしか残さなかったことが大きな原因だったのではないだろうか。きっと当時の私に原稿用紙10枚分の感想文を書けと言ったらきっと発狂していたに違いない。
しかし、今の私はあれよあれよという間に原稿用紙にしてその9枚分を埋め尽くす段まで来てしまったようだ。しかもこの9枚は、いかに文字を書かないマスを増やすかに心血を注いだ小学生のそれとは違い、全て文字で埋め尽くしての9枚である。こうしてみると、〝読書家〟とまでは言えないまでも、一〝読み手〟としては多少成長出来ているのかもしれないと少しホッとできるような感じがしてくる。
また、本書の後ろ30ページほどが『渡りの一日』という『西の魔女が死んだ』の後日談で占められているのには随分と驚かされたものだった。これについてはどうやらその存在自体が私の頭から抹消されていたものらしい。
しかしこの『渡りの一日』に関しては記憶に残らなかった理由がかなり明白だった。現在の私から言わせても、この後日談は「蛇足だな」というのが率直な感想になるのである。やはり、読後感を濁してしまうのはあまり褒められたものではない。
しかし総じてみると、今回の『西の魔女が死んだ』の再読は意外にも悪くはない読書体験であった。というのも、今回の読書によって〝再読の意味〟の一つを発見できたような気がしたのである。ビッグモーターを買収した伊藤忠商事の名誉理事・丹羽宇一郎氏もこのように言っていた。
自身の成長を知ることができるというのが〝再読の意味〟の一つということになるのだろう。つまり、私は「アホ」にならずに済んだわけである。
そしてこの気づきを得られたのも、冒頭にちょっと書いた『西の魔女が死んだ』との不思議な再会があったからこそである。本書の主人公のまいがそうであったように、きっと人生にはこういった些細な魔法――つまり不思議な何かが必要なのであろう。
まして、よしんばその〝不思議な何か〟の中にテレパシーというものが含まれるものなら、きっと私は『西の魔女が死んだ』を読んでいる小学生に対してこう言ってやるに違いない。
「多分、〝ゲンジ〟の名前は〝現実〟からとってるんだよ」
そしてドヤ顔をしながらこう付け加える。
「安直なネーミングだね」
すると、これに小学生が応える。
「あっちいけよ」
うむ。やっぱりテレパシーはないほうが良さそうだ。
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