①サンスケさんを育ててくれた街は?
いつも通りサンスケさんと呼びつつ、いつも通りの話し方で進めていきましょう。早速、サンスケさんを育ててくれた街はどこ?という質問からはじめます。
宇都宮になるのかなぁ…宇都宮でレコード屋をもう33年やっていて、始めたのは19歳の時なの。(一緒にレコ屋を興した)社長はいたけど、手探りで始めたもんだから最初はお客さんの方が詳しくて。“こんな曲も知らないのかよ!”とか、お客さんに言われながら始めてさ。
イベントも、DJも、同時期には始めて。10代から20代にかけては自分がまだどこぞの者とも言えないような存在だったから生意気にも、自分の名を上げる、じゃないけど…自分を確立していくのに必死で精一杯だったかなぁ。周りを見る余裕もなく、でも周りの色んな人に助けられながらやってきたことを今、すごく感じられるんだけどね。
30代に入ってからは音楽で繋がった友達と一緒に、宇都宮でカフェとか雑貨屋もやったりしてね。でもボクは音楽の人だから、これは違うな…何をやってるんだろうって。家族が出来たこともあったし、それもちゃんと大切にしないといけないな、って。自分の土壌はどこにあるんだろうって思ったら、やっぱり音楽がある場所だからさ。残りの人生はレコード屋・音楽のことで人生を終わろう、って。今ある場所・宇都宮江野町にレコード屋を移してきたんだよね。それが2014年頃で、40歳前後のとき。
その場所こそ今、「スノーキーレコード」の看板があるレコード屋さんですね。
そう。「スノーキーレコード」は1991年からやっていて、宇都宮の商店街・ユニオン通りで始まってから(レコード屋としての仕事は)やれない時期もあったけど、ずっとやってはいたんだよね。
でも(現在地にスノーキーレコードを)構えてからかなぁ、音楽に対してもちゃんと真摯に向き合うようになって。今の場所を作った時、レコード屋の隣にBARスペースも作って“ここでライブがやれたら良いじゃん”とか、そういう発想が出来たんだよね。それでちょっとずつライブとかDJイベントとかを手探りでやってたら段々、色んな人と繋がりが出来てさ。昔、繋がってた人もここに来てくれたりね。
今は一緒に働いてる人もいないし、ボクはここで人生終わろうと思ってるからさ。自分自身がちゃんとしないといけないな、って思えたのがこの場所だし、宇都宮で生きていく、ということなのかなと思ってて。
前にお店にお邪魔した時、レコードを一生懸命見てる学生さんがいて。“次は店主に聞いてみよう”ってまたお店に来たかもしれない。お店という場所が街にある大切さをあの時、すごく感じたんですよね。
あぁ、本当?コロナ禍もあったからオンラインを充実させて商売をしてるけど、やっぱり自分がやりたいのは対面でやる商売なんだよね。顔を見て“どんな音楽が好きなの?”とか話してさ。それで自分が仕入れたものを手渡したい、それが本分と言うか理想だよね。
若い子に“レコードプレイヤーを買ったから、レコードを聴いてみたい”なんて言われると“今は分かんなくても色々と聴いていくうちに理屈が分かって、きっとこれは好きになると思うよ”みたいな薦め方をしちゃったりね。“あと5年経ったら分かるよ”とか言ってみたり(笑)。
音楽を教えてくれる兄貴がいるお店が身近にある、っていう街は最高だと思う。遡ってそもそも、サンスケさんってレコード屋さんになりたかったの?
ボクの時代は子供の頃からレコードが身の回りにあって、レコードを手に取ってターンテーブルに乗せるのは普通のことで日常でさ。宇都宮の隣・鹿沼市で育ったんだけどまぁ退屈な街だし情報もない、レコード屋に行ってレコード屋の人に聞いても自分が求める音楽には辿り着かない、みたいな。音楽のことを聞けるような人も周りにはいなかったし。
中学~高校はラジオを聴くのが結構な楽しみで、ピーター(・バラカン)さんとか大貫(憲章)さんをテレビで見たりとか、小林(克也)さんの「ベストヒットUSA」とかね。MTVも毎週チェックしてさ。
地元のラジオ(=栃木放送)に小田島(建夫)さんがいて、小田島さんの番組に毎週リクエストを書いて送ってたの。それがたまに読まれたりして、そしたら今度はスタジオに遊びに行かせてもらったりして。公開放送をやるから観に行ったら、来た人を皆ステージに上げちゃって。生放送で、その臨場感が結構面白くってさ。小田島さんは俺からしてみたらもうアイドルみたいな人で、それぐらい影響を受けたから自分が今、ここにいると思ったりもするんだけどね。
小田島さんは前に、店に来てくれたことがあってね。“あの、字が汚い鹿沼市の竹澤くんだよね?読むのが大変だったよ~”って言われてさ(一同笑)。何年か前には、小田島さんのレコードも引き取りに行かせてもらったりね。それで小田島さんがすごい人だなって思ったのは当時、東京のレコード会社に自分からプロモーションに行って、自分で音源を預かっていたこと。それでその曲をバンバンかける、そんな人は今いないよなぁ、って。
小田島さんがラジオで扱う音楽はポップスで、自分が成長するにつれ年齢もあったのかもしれないんだけど、“突き詰めたらボクは、やっぱりイギリスの人が求める音楽が好きなんだな”っていうのがあって。
白人の音楽だけどベースには黒人の音がある、50年代のアメリカはそれがタブーでエルヴィス(・プレスリー)は南部育ちで親に隠れてゴスペルを聴いて、そうやってエルヴィスの血の中にはブラック・フィーリングが入っていくわけ。それでロカビリーとかレベル・ミュージックが出来るわけなんだけどさ、そういう音楽が刺激的なんだよね。イギリスの音楽にはそういうものも感じられるし、イギリスに買い付けに行ってもヨーロッパの人の方がアメリカの音をすごく大事にしてるのがよく分かってさ。イギリスやロンドンの人たちが熱狂する音楽に傾倒していくんだけどね。
今の(オリオン通り内にある)オリオンスクエアになる前は109 UTSUNOMIYAがあったんだけど、その前はams(アムス)っていうファッションビルがあったの。そこにWAVE(=レコード屋)が入ってて、ボクは地元の大学に進んで1年の時からそこでアルバイトをしてさ。アルバイトをしてたら、ユニオン通りに(店舗が)ある中古レコード屋さんが催事でやって来るわけ。で、ちょっと覗いてみるとレコードがたくさんあって、自分が求めてるものもあったりして。それでユニオン通りに当時、2軒あったレコード屋にも遊びに行くようになったの。そこで、最初に言った社長に出会うわけ。
社長はいつ会っても不平不満しか言わないの、レコード屋の商売を見てて“こんなレコードを探してます、って言ってるのに(店員が)それを探そうともしない”って。社長は商売の人だったから、“じゃあ、ボクと組んで何か面白いことをしましょうよ!ボクとレコード屋をやりません?”って言ってみたの。それがスタートで。
そんなことあるんだ(笑)!?
あるんだよ。ウチの親父より歳が1つ上だったかな、“おぉ、じゃあ、やろうか!”って(笑)、社長がお金を用意してくれてさ。“竹澤くん、やるからには株式会社をやろうよ”って。ボクが19歳で、社長が50歳ぐらいの時。
スタートしてから4~5年ぐらい経って、不動産をやっているお客さんがよく店に遊びに来てたの。ブリティッシュ・ビートが好きなお客さんだったんだけど、不動産の話を聞いてるうちに社長が不動産もやりたくなっちゃったみたいで、“申し訳ないけど、レコードショップの半分を改装して不動産屋もやらせてくれ”って(一同笑)。それでボクは、レコード屋の方だけ好きにやりなさいってことで、社長は不動産屋を始めてね。
不動産屋とレコ屋が並んだ店舗があったの!?
あったあった、一時期、宇都宮の街を歩くと「スノーキー不動産」っていう看板も結構あったりして。
そういえば…確かに…!!!
でしょう、だから俺は不動産屋の息子・社長の息子だと思われたりしてさ。だから、コロナ禍になって本当に大変だったけど“サンスケくんの家は不動産屋さんだから大丈夫”なんて言われてたりしてさ。いやぁもう、冗談じゃないよ(笑)!
そんな社長もね、3年前に亡くなったんだよ。街中にいれば1日1回は会うような名物的な、“街の顔”みたいな人でもあった人だけど、俺が10年前に今のお店を開く時も挨拶に行って“スノーキーレコード(の屋号)でやらせてもらいたい”って話したら“全然、良いよ!”って。しかも“心配してたんだよ”なんて言われてさ…社長にずっと心配をさせながら、でも一言も何も言わずに、見守っててくれてたんだなぁと思ってさ。
社長との出会いが今のサンスケさんの歯車を動かしてくれてますよね、出会いって面白い。大学は結局どうしたのでしょう?
経営学部だったのよ、大学の先生にも“ボクはもう、経営を始めたんで!”とか言って(笑)。1年留年して何とか卒業したね、どうやって卒業できたかはもう覚えてないけど。ウチは親父が公務員だったし、それで母親には最近ぐらいまで“ちゃんと就職しなさい”って言われてたけどね(笑)。
【「②サンスケさんのそばにある1曲」に続く/12月13日更新予定】