愛人宅侵入と拘置所面会。
自分の実父が亡くなってから、もう20年ほどの月日が経つ。今の自分より若い年齢…50歳になる前にC型肝炎で命を落としたわけだが、訃報を聞いて鹿児島に帰省し葬儀場に直行したら、極道関係の人たちが取り仕切る「組葬」だったのでびっくりした。
そんなにがっつり反社組織の一員だったとは思わなかったから。
「うちの父親はヤクザで…。」と言いながらも、ひっかけた女を夜の店で働かせて、そこに転がり込んで食わせてもらう、いわゆる「ヒモ」として生活していたので、暴力団関係者ではあったはずだが、どれぐらい反社会的行為を行っていたのかは、よく知らないままでいた。
自分がまだ幼子だった頃に一度服役していたのは確かなようだが、それも何の罪で収監されていたのかは知らない。そういうことは本人に聞けるわけがないし、親戚や周囲の人もあえて口に出さないようにしていたのだろう。
おそらく傷害のようなことが原因だったのではないだろうか。自分が生まれた時、父親はまだ17歳だったから血気盛んな若者の頃の過ちだったと想像する。
それでも記憶を掘り起こしていくと、確か小学校高学年の頃に、自分が当時預けられていた「育ての母親」が、拘置所に差し入れに行くという日に同行したことがあったのを思い出した。
ドラマとかでよく見るような、通声穴が丸く開けられたアクリル板越しに会話をしたという記憶は無いので、おそらく育ての母が面会室に入って行ったそのドアの外で待っていたのだと思う。
それからうちの父親が長期不在になったこともないから、その時は執行猶予が付いて実刑は免れたのではなかったか。
その時拘置所に入ることになった理由は、おそらく覚醒剤使用。
普段は育ての母と自分の二人暮しだった、国道3号線沿いの安アパートに、気が向いた時にふらっと立ち寄るうちの親父。
ある日、昼間から風呂を沸かし、風呂場に入ったまま2時間以上も出て来ないことがあった。
やっと出てきたと思ったら、風呂場のタイルの目地の黒ズミが気になったので徹底的に掃除してやったぞ、と。
もともと潔癖症的なところがある人だったから、その時は「よくずっとタイル磨いてられるなあ。」と感心していたのだが、父親が去ってから育ての母が「さっき風呂場に籠ってたのは、これよ、これ。」と腕に注射器を刺すジェスチャーをした。そして、「ああやって、クスリを体から抜くんだがね。」と、眉をひそめて言った。
それがちょうどその頃のことだったと思うので、おそらくクスリ絡みでパクられたのではなかったかと。
それにしても、そういうことをまだ小学生の自分にわざわざ教えなくてもよさそうなものなのだが、育ての母にはそういう悪趣味なところがあって。
例えば、うちの親父の局部には真珠が埋め込まれている、とか。その時は意味がわからなかったけど、やがて中高生になった頃に「ようあんなこと子供に言ってたな。」と呆れたこともあった。
そういう性格の育ての母の、女の嫉妬深さ、執念深さを目の当たりにした出来事があって、それこそその時の拘置所に面会に行く直前のことだった。
ある夜にバスに乗って少し離れた町まで行き、あるマンションの一室に侵入して、いろいろ物色したことがあって、その時一緒に連れられて行ったのだが…。
当時小学生の自分には、なぜこんな夜更けに出かけるのか、来たこともないマンションの、誰の部屋かもわからないところに、なぜ勝手に上がりこめるのか、なぜそこら中の物を引っ掻き回すのか、全然意味がわかっていなかった。
その後何年も経ってから、なんとなくこういうことだったのではないかと、前後の記憶を結び付けて、理解できるようになった。
おそらく、うちの父親が拘置所にしばらく勾留されることが決まった時、育ての母に連絡が行き、着替えとかタオルとか歯ブラシだとかなのか、諸々必要な物を届けに来てくれと頼まれた。当時、うちの父親は例によってよその女のところに転がり込んでいたのだから、その時の着替えや生活用品はその女の部屋にある。合鍵を渡された育ての母は、その女がホステスとして働きに出ている夜に、その部屋に入り込んで差し入れ用の物を集めたのだった。
一緒に連れて行かれた自分は、その時「猫がいるから、その猫の世話をしてくれと頼まれている。」と聞かされていて、他人のマンションに上がり込んでそこらの引き出しなどを勝手に物色している育ての母を、ベランダに出て猫を撫でながらガラス窓越しに遠巻きに見ていたのを憶えている。
そういえば、たまに田舎のばあちゃん家に、その白いペルシャ猫を預けに行ってたりもしてたわ。それがその時の女の飼い猫とは知らず。
いろんな女を引っ掛けてはそのヒモになっていたジゴロな親父だったが、その時一緒に暮らしていた女性とは結構長く続いたんだと思う。
「◯◯美(仮名)」…「また◯◯美の所におるのよ。」みたいに、育ての母親は憎々しげにその名前を呼び捨てにするのを、しょっちゅう聞いていたから。
育ての母にしたって、実際は入籍もしておらず、うちの親父の妻になったわけでもなかった。なので「お母さん」と自分が呼んでいたその人は、血縁関係どころか戸籍上も他人のままだったことになる。
それでも惚れた男の実の子を預かって育てているということは、いわば自分こそが本妻であって、今たまたま一緒に暮らしているだけの女は愛人のようなものだと、育ての母的には考えていたのだろう。
最終的にあの男が帰ってくるのは自分の元以外にはないはずだという自負が、彼女を支えていたのかもしれない。
それでその時、面会に行く時に届ける必要品だけを探せばよいものを、育ての母はそこら中の棚や引き出しを引っ掻き回し、まるで浮気の証拠を集めるかのように、うちの親父がその女と暮らしている痕跡を確かめる作業を続けていた。
そこでまたその育ての母の陰険で悪趣味なところが顔を出す。ベランダで猫と遊んでいた自分を呼び寄せて、「こんな写真まで撮ってるがね!」と、その愛人の写真アルバムを開いて見せるのだ。
そこにはうちの親父と◯◯美がキスしたり、いちゃついている写真が数枚含まれていた。
「こんなん撮っていやらしい!」みたいなセリフを毒づきながら、多分その時アルバムからうちの親父が映っている写真を片っ端から剥がしていってた。
他人のうちに勝手に上がり込んで、散々物色した挙句、何の権利があって人のアルバムの写真まで処分するのか。当時、小学生の自分は何とも言えない居心地の悪い思いをして、女の怨念を燃やす育ての母のあさましい行為を冷ややかな目で見ていた。
そういう場面を断片的にしか憶えていなかったのだが、のちのち記憶をつぎはぎしていくと、「ああ、あれは面会に行く前の晩のことだったんだな。」と腑に落ちたのだった。
自分の父親のことを「犯罪者」だと認識して過ごしては来なかった。
「確かに刺青入ってるけど若気の至りで、ヤクザといってもジゴロみたいな人だからなあ。」となんとなく曖昧にしたまま接していた。
でもよくよく考えてみると、自分と一緒にいた鹿児島時代の十数年の間にも、暴力沙汰は起こしているし、覚醒剤で捕まったこともあったし、「うちに電話がかかってきたら『はい、◯◯商事です。』と答えとけよ。」と教え込まれたこともあったので、借金踏み倒しなのか詐欺まがいのことなのか、何かしら金銭関係でも法に触れていた可能性は大いにあった。
フーテンの寅さんが「どうせ、おいらはやくざな兄貴〜。」と歌う時のような牧歌的な時代の「ヤクザ」とは意味合いが異なり、今で言う「反社」だったのだなと思い知り、子供ながらに見たくないものをなるべく見ず、知りたくないことには耳を塞いで誤魔化して生きてきたのだと痛感するのであった。
もう亡くなってだいぶ経つから、時効だと思ってこんなことを文章にしてますけど。
でも「身内の恥を晒す」という罪の意識みたいなものは、なぜか感じないんだよなあ。