引用と解釈の日記 2024-09-26

2024-09-27:追記を追加。

個人的に重要かつその日の発見を抜粋して👀
おそらく、著者同士互いに結びつくと考えつつ。
この記録をまとめていくうちに、心理学的記述と私の理解の筆記をつなげる記述が生まれると期待しつつ。


「自我の大部分は同一化によって形成されるのであり、この同一化は、エスが放棄した備給を引き継ぐものである。この同一化の最初のものは、常に自我における特別な審級としてふるまい、超自我として自我に対立する。……まず、超自我は、自我がまだ弱々しかった時期に起きる最初の同一化であったこと、第二に、超自我はエディプス・コンプレックスを引き継いだものであり、自我の中に強大な対象を導入したことである。……超自我が父親コンプレックスを起源とすることによって獲得した性格は、一生を通じて失われることはなく、自我に対立し、自我を支配する能力を保つのである。超自我は、自我が弱々しく依存的であった頃の記念碑であり、成熟した自我に対してもその支配を持続する。子供が以前は父の強制のもとにあったように、自我はその超自我の絶対的な命令に服従するのである。」(フロイト『自我論集』内「自我とエス(1923)」, 256p, ちくま学芸文庫)
――これは超自我に対する端的な記述であり、ラカンにおいては「大文字の他者A」「〈父の名〉」への理解に相当するような記述内容である。

「しかし超自我がエスの最初の対象備給、すなわちエディプス・コンプレックスに由来するものであることは、超自我にとってさらに重要なことを意味する。」(フロイト『自我論集』内「自我とエス」, 256~257p, ちくま学芸文庫)
――「自我はエスの一部だったのです。そして外界に近いために、外界の刺激を受けて修正された部分であり、刺激を受容し刺激から防御するための装置となったものです。」(『人はなぜ戦争をするのか』内「続・精神分析入門」第31講「心的人格の解明」, 176p, 光文社古典新訳文庫)という記述がある。つまり、自我はエスに属するものであった、と。
それを含めて考えると、これは同一化過程に関連しており、人間にとって一番最初の同一化過程である父親との同一化がそのまま超自我の形成につながっているということを示し、父親ということは、それはすなわち外部の人間=他者、ということではないか。


追記(2024-09-27)

最近、「超自我と大文字の他者Aは似ているようで違う」というつぶやきを見かけました。
大文字の他者Aと言えば、四角形のような線分の図*¹(ジャック・ラカンによるシェーマLという図)の一要素です。

*¹ラカンによるシェーマLの図

もしも超自我が大文字の他者Aと似ているというのならば、自分の記述内容に従うと、何かの大枠の中に超自我があるというモデルを立てないと大文字の他者=超自我的という考えを立てられないということを考えました。
私は、以前の記事(『暫定的メモ 2024-09-17』)において、大文字の他者Aを「あなたを構成するシニフィアン群である」というような書き方をしているので、ある意味では大文字の他者Aは自我の構成全体ともとれてしまい、区別がつきにくいです。
この図において、a:自我とA:大文字の他者は区別されており、それぞれ別の要素として見なければなりません。
フロイトは、自我を一つのまとまりとして記述し、その後から、二つの部分に分かれるという記述をしています。
「わたしたちが研究の対象にしようとしているのは〈自我〉、すなわち私たちに最も固有な〈自我〉です。……自我は自らを客体とすることができます。自我はみずからを他なる客体であるかのように取り扱い、自らを観察し、批判することが出来ますし、その他にも様々な形で処理することが出来るのです。その場合には自我の一部が、自我の残りの部分と対立することになります。ですから自我は分割することができるものなのです。自我は様々な機能を発揮する際に、少なくとも一時的には分裂するのです。この分裂した部分は、のちにふたたび統一することができます。」
「精神疾患の患者達は、いわばこうして裂けて割れた[人間の]構造体なのです。」
「ところでこの精神疾患に悩まされている患者の主張が正しかったとしたらどうなるか、考えてみてください。私たちの自我の内には、私たちを観察し、処罰しようと脅かしている審級が存在しているとしたら、どうでしょうか。精神疾患の患者の場合にはその審級が自我と明確に区別されて、誤って外部の現実に押しつけられているにすぎないのではないでしょうか。」
「そして監視する審級が自我のその他の部分と分離するのは、自我の構造に常に存在する特徴なのではないかと考え始めたのです。……このようにして自我の分離された審級の詳しい性格と、自我との関係を研究するようになりました。そしてすぐに次の一歩を踏み出すことになりました。……そしてこの審級には、良心が裁くための前提として不可欠な自己観察という別の機能も備わっていると考えるのです。……自我の内部のこの審級を以下では『超自我』と呼びたいと思います。」(四つの引用は、『人はなぜ戦争をするのか』内「続・精神分析入門」第31講「心的人格の解明」, 141~144p, 光文社古典新訳文庫。太字は私によるもの。)

フロイトは自らの研究の軌跡を辿りながら、導入として〈自我〉を一つのまとまりとして扱いながら、最後に「自我と区別し始めたこの審級」を【超自我】と名付け、この文章内で以降の説明においてその内容を【超自我】として扱っています。

一時期のフロイトはどうやら全体を〈自我〉として扱って、その中に機能が多数あるということを考えていたようです。
同じ文章内のフロイトによる図を思い出しながら、自分でメモ*²を組み立ててみました。
「では、超自我の下の部分はなんだろうか?」と考えたところ、ICH=私としてみましたが、結局この位置には〈自我〉が来ました。
ではこの外側の「自我」は何なのでしょうか?
左の図の時点では、「自我」という名付けが2つあることになります。
フロイトの構造図*³におけるこのラグビーボールのような外枠に対して、いったいどういう名前を付けるべきなのでしょうか?

最終的にそこに対して私は【私の心】と名付けました。
ある意味では当たり前の結末です。

*²私のメモ:9/27
*³フロイトによる心的装置の構造図(1933)



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