龍美

@q_xb8w

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最近の記事

奇跡

 叔母の家に行った。父の妹にあたる人で、まあ叔母と言っておいていいだろう。その日は家で父と、叔母と、その夫と、彼らの子どもと、僕の弟とで食事会を催していた。叔母の手作りの料理はとてもおいしかった。  宴もたけなわ、そろそろ帰ろうという時間に僕は母親に連絡をした。迎えに来てもらおうと思ったからだ。実家から車で15分もすれば着くという。少し叔母や父と喋りながら、僕と弟は帰り支度をすすめることにした。  母から連絡が来たので、叔母たちに手を振って別れる。父は駐車場まで見送りにくる。

    • 「結婚」という幸福について思うこと。

       最近あるライトノベルにはまっている(以下では「O」と表記する。誤解を招き、作品の評価を毀損したくないので)。Oは10年くらい前に完結した作品で、最近まで番外編が刊行されていた人気作品だ。その最終巻の末尾で、主人公とヒロインが結婚式を挙げる(本当に結婚するわけではなく、いわば愛の象徴として行うのだが)シーンがある。Oの番外編(3つある)ではいずれも主人公が違うヒロインと結婚し、その子どもも登場して彼らは「幸せに」暮らすシーンをもって結末となる。本編にしろ番外編にしろ、この作品

      • パラレル・ワールドを妄想する

         最近『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を読み、アニメ版にも目を通している。ここ2週間弱ですっかりはまってしまい、買い込んだ文庫・新書本と同時並行で読みふけっているわけである。(あらすじは公式HPのリンクを貼っておく↓)  一推しのキャラとして新垣あやせちゃんがいる。主人公(高坂京介)の妹こと高坂桐乃の友達で、まっすぐで、純粋で、友達想いなゆえに思い込みが激しく、「こいつヤンデレだろ」とびっくりしてしまうような時がままある子である。僕はヤンデレキャラが大好きなので、あやせ

        • 脳内彼女とは何者なのか

          はじめに(『超人計画』の概要)  脳内彼女とは誰なのか。脳内彼女は滝本竜彦の半エッセイ半小説と呼ぶべき名作『超人計画』(2006年 角川文庫)に登場する、滝本竜彦が妄想によって創り出した彼女である。あとがきにおける滝本氏本人の解説を踏まえると、大体の話は以下のようになる。  本作は滝本竜彦本人が鬱病から回復し、『ネガティブチェーンソー・ハッピーエッヂ』『NHKへようこそ』に続く作品を書き上げ、彼女を作ってこれまでのオタク気質で引きこもりで、内気な自分を変えるために書かれたエ

           旅行日記

           最近滝本竜彦の『超人計画』(2006年 角川文庫)を読んだ。僕はこれをリスペクトしている。傑作だ。以下の文章とは相関性はない。また以下の文章を読みながら、そこに出てくる人物には「モデル」がいると感じる人がいるかもしれないが、それは誤りである。  僕と善子は朝早く家を出て熱海へと向かった。新宿で乗り換えて小田急線で小田原へ、さらに乗り換えて熱海駅である。家を出たときは眠そうで、こないだの余韻もあるのか、少し暗い表情だったが、ガラガラの小田急線に乗って開成駅に向かうあたりから

           旅行日記

          最低なこと

           ある飲み会でのこと。僕のことや同席していた(全員男である。ホモソーシャルだ)他の人たちの趣味など、そこそこ話が盛り上がってきたところで聞かれた。「この場にいる女の子の中でさ、誰が一番タイプなのよ」と。  そのホモソーシャルな輪の隣には、同じ飲み会仲間の女性陣が同じく輪を作り、色々な話に興が乗っていた。僕は口の中で「うっ」という言葉を小さくとどめた。僕が一番回答に困る質問であり、回答したくない、というよりもむしろできない質問である。異性に対する「タイプ」という形式での価値付与

          最低なこと

          第32回外山合宿

          はじめに  2023年12月24日から2024年1月3日(解散は4日)まで、私は第32回外山合宿に参加するべく福岡県にいた(地元でもあるので、ついでに帰省である)。以下合宿について、生活面を中心に所感を書こうと思う(内容面や合宿に持っていくといいものなどは、外山恒一本人がnoteでアップしている合宿の内容を記した記事を購入するなり、過去の合宿参加者の記事を読めばよいので、私が解説する意味は全くないのである)。暇で暇で仕方ない人だけ読んでほしい。 自己紹介(別に読まなく

          第32回外山合宿

          私の存在論(仮)

           存在するとはどういうことか。それは唯あるがままにそれがそこに在ることである。「あるがまま」ということはそこには一切の「価値」は介入しない。もう少し正確に言えば、その存在を知覚する者から自生してくる、一切の「価値」が入り込む余地のないという意味で「あるがまま」である。だからここでいう「存在するとはどういうことか」に対する回答は、自我論としてのそれとなる。  存在には価値が付加されていることもある。が、それは私という認識主体に外在する“価値”だ。例えば「芸能人の○○のスキャンダ

          私の存在論(仮)

          福田村事件

           映画『福田村事件』を吉祥寺まで観に行った。千葉県福田村(現在の野田市)で関東大震災の前後に起きたことを、実話(史料)をもとに再構成した映画ということくらいは調べて行ったわけだが、非常に見どころがあった。以下めちゃめちゃネタバレをするが(そうしないと文章が書けないから)、このつたない文章から映画を実際に観に行っていただけると幸いである。  1923年に起こった関東大震災以後、東京を中心に「朝鮮人が暴動を起こしたり井戸に毒を盛ったりしている」というデマが流れたということは、高

          福田村事件

          自由な読書

            最近システマティックに読書をすることをやめた。  今までの僕はあるテーマを決めて、それについて数冊本を読む、そして別のテーマで本を読む、以下繰り返し…という形で読書をしていた。その際の選書基準はもちろん自分がおもしろいと思ったものも多かったが、「これを勉強するならこれを読まないといけない」という基準もあった。これでは確かに実りある読書にはなるだろうが息が少しずつ詰まってくる。学術研究ではないので、読書は楽しさを優先させた方がよいのではないか。こう思った次第だ。  だからも

          自由な読書

          空間

          スーパーで買ってきた生肉を焼いて食べる。流しに皿やフライパンを置いてリビングを振り返ると、そこには空虚だけがあった。  この家はとても広い。部屋が3つ、キッチンには流しが2つ、ガスコンロが2つある。部屋をつなぎ廊下も長い。だからといって家具や本がところ狭しと並んでいるわけでもなく、実際に使われているスペースは全体の6割といったところか。3つの部屋のうち1つは物置小屋になっている。 私が暮らしている東京の家に比べると、なおのこと広く感じる。東京の家にはロフトがある分、やや広い感

          的なもの

           夜行バスの中は暇だった。腰は痛いし、22時に消灯したから本も読めない。スマホは荷台に預けたリュックサックの中で取り出すことができない。できるのはいつの間にか意識が飛ぶまで暗闇の中で振り返る事だった。  その人の印象は強く残った。いや、「印象に強く残った」と言い表すのは少し違う。それだけなら深夜、暗闇の中でいの一番に思い出すこともないだろう。そうだ、あの人に似ているのだ、だから…。分子レベルで二人は似ている。あの人の分子をあの人に見出したから、それは「印象に強く残った」どころ

          的なもの

          語る「べき」ものと語る「ことができる」もの

           「語るべきもの」とは、それが他者から要請・推奨されていることを意味する。一方「語ることができるもの」とは、必ずしもそうした要請・推奨、つまり外発的動機づけを伴わないことを意味する。言い換えればそれは「語りたい」という意志が強く出る。  「語ることができるもの」のストックは自分で増やしていくことができる。僕にとってその手段の主たるものは読書である。あの本のここが面白い、あの本を読んで僕はこう思った、こういう問題提起をしている、次はあれが読みたい…。読書でなくとも、最近自分が検

          語る「べき」ものと語る「ことができる」もの

          『消滅世界』へ

           『消滅世界』(村田紗耶香 2016年 河出文庫)を読んだ。人工授精で子どもを産むことが当たり前となった世界を舞台としたこの作品においては、(解説を記した斎藤環の表現を使えば)「愛」「性」「生殖」がバラバラに人々の意識に根付いている。家庭は夫と妻、そして人工授精で、つまり「家庭の外で」誕生した子どもが愛を育む空間であり、夫と妻の間での性的感情・行為は「近親相姦」としてタブーとされる、そんな世界だ(因みに人々は子どものときに「避妊処置」をし、セックスをしても精子・卵子が機能しな

          『消滅世界』へ

          不可知論を凡人に当てはめる

           尾崎豊の曲をよく聴く。友達にアルバム『壊れた扉から』収録のドーナツ・ショップという曲を薦められたのがきっかけだ。彼の生前残したメモ書きを編集した『NOTES 僕を知らない僕』を読みながら彼の曲を聴く。  それから尾崎の書いた小説も読んだ。『誰かのクラクション』はとても好きだ。僕も煙草をくわえて、湘南辺りをスポーツカーで走ってみたい。個人的には「堕天使のレクイエム」も好きだ。不倫関係の男女の別れを描くそのシーンは重く、しかし羽のように軽く、空虚なその関係の終わりという名の死を

          不可知論を凡人に当てはめる

          引き裂かれる

           性についてだらしなく考え、妄想に耽る「私」と、それをみっともなく感じ、封殺してしまいたい「私」。どちらも「私」だ。だからどちらも偽ることができないし否定できない。でもどちらも「私」である故に、身体という器がそれらを暴力的に共存させてしまう。困ったことだ、苦しい。  身体はこの意味で「私」にとって暴力だ。身体は認めたいものと認めたくないものを無理やり共存させてしまう。でも身体のやることはそれだけで、それらの折り合いをつけるとか、納得させるという作業は当事者、つまり「私」に丸投

          引き裂かれる