パラレル・ワールドを妄想する
最近『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を読み、アニメ版にも目を通している。ここ2週間弱ですっかりはまってしまい、買い込んだ文庫・新書本と同時並行で読みふけっているわけである。(あらすじは公式HPのリンクを貼っておく↓)
一推しのキャラとして新垣あやせちゃんがいる。主人公(高坂京介)の妹こと高坂桐乃の友達で、まっすぐで、純粋で、友達想いなゆえに思い込みが激しく、「こいつヤンデレだろ」とびっくりしてしまうような時がままある子である。僕はヤンデレキャラが大好きなので、あやせちゃんのパーソナリティが気に入っているという次第である。
最近はこんな調子であるから原作を読みながらあやせちゃんのことを考えている時間が格段に増えた。作中では京介のセクハラまがいのスキンシップや自身の思い込みの激しさから、京介に罵倒や中段蹴りを浴びせたりする一方、急にハイライトの消えた目で詰め寄ってきたり(ベタ目というやつだ)、急に素でデレたり、とにかく可愛い。だから色々妄想をしてしまうわけである(その中身はあまりに私的なのでここで書いてよいものではない)。
ここでハタと気付く。妄想がはかどるわけだが、これには二種類あるということを。
一つ目は「彼岸」あるいは「理想」としての妄想である。このタイプの妄想の特徴は、私が今存在している「この世界」とは「別の世界」に思いをはせ、「こういう世界で僕は~だったらいいのに」と仮定する点にある。この場合妄想の舞台は実在しない「別の世界」であるわけだから、それは「この世界」に対する何らかの反発を含むことになる。ニーチェは『道徳の系譜』でキリスト教の特質は「強いものは善く、弱いものは悪い」から「弱いものは善く、強いものは悪い」への価値転倒と、「弱いもの」の彼岸思想、つまり「辛く苦しいこの世界でのキリスト教の信仰が、あの世での救済・幸福につながる」という思想にあるとした。こうしたキリスト教の起源は己を取り巻くこの世界への反発を原動力とした「ここではない別の世界」への憧れだと言えるだろう。したがって、ニーチェのいうキリスト教と同じような構造が「妄想」にも認められる。
二つ目は可能世界の妄想である。つまり、今僕が存在する「この世界」と同時に在りうる以上の意味を持たない、ニュートラルな「別の世界」を妄想するということである。
ライプニッツは絶対者の位置にある神が、原子のような単位としての、差異あるモナドで構成されたいくつもの可能世界の中から、最も調和がとれるようそれらを選び取り、構成した「この世界」こそが最善の世界である、とする予定調和論を提唱したが、ここでライプニッツのいう可能世界は妄想のような荒唐無稽なものを含まない、つまり「この世界」から論理的に導出することができ、その存在が考えられる世界のことを指す。
しかし、ここでは思い切って「論理的かはさておき、想像はできるしどこかにあると信じられる世界」として緩くとらえたい。詭弁だが、想像ができれば論理の通る余地はどれだけ荒唐無稽にみえてもある(からだ。
以上の文脈を「可能世界としての妄想」に突き合わせてみると、妄想をする「この世界」及びそこに存在する私は、あらゆる可能世界の中で最善であるという(僕はこれはある種当たり前だと思うが)命題と、荒唐無稽であれ想像・存在しうる併行世界としての可能世界を「妄想」するという行為は両立することになるー妄想を「彼岸」「理想」として措定すること無しに。
最初の話に戻ろう。僕の「妄想」はどちらかということだ。結論から言えば「パラレル・ワールドの妄想」の方である。
冒頭に語った『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』にしろ、その登場人物である新垣あやせちゃんもそもそも次元が異なるわけなので、これらを巻き込んだ妄想は少なくとも「別の世界」のそれになる。
しかし、その主体である僕は、今まで色々と自分の過去を振り返って「あの時こうしていれば」ということは山ほど考えてきたが、それで語ることができるのは「こうではなかったら」という仮定であって、その先の論理的かつ理想的なビジョンではなかった。僕の想像力の貧弱さも相まって、僕は僕が生きている「この世界」以外の世界を「理想の世界」として提示することはできなかったわけである。そして、今僕がいる「この世界」に、僕は「彼岸」「理想」を立てたくなるほど絶望してはいない。僕は僕の人生の舞台である「この世界」で、割とうまくふるまい、人間関係に恵まれ、一般的には「成功」している方だという自覚があるからである(自分で言うのもあれだが)。
こうなるといかなる妄想も「でも結局それは妄想であって、今僕がいるこの世界以上のものではないよな」という冷めた意識から、自覚的に行われるようになる。まして先述したが『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』はそもそもフィクションであり、二次元世界のそれである。「この世界以上」も何もへったくれもないし、そもそも比較しようがない。だから僕の妄想は「それでもどこかに存在するかもしれない」という殆ど信念だけで支えられているような、「可能世界としての妄想」あるいはそれに近い妄想にしかなりえないわけである。
なんだか穴だらけの雑な思考を展開した。僕が言いたかったのは「この世界」へのルサンチマンを含む妄想など醜く、それは心の「弱さ」を自分にも曝す、どうしようもない妄想だということである。
僕は、僕が生きている「この世界」はどれだけ僕が嘆いたところで存在し、変化し続けることは確実な、動かすことのできない事実であり、不滅のマテリアルだと思っている。それを頭ごなしに非難しても時間の無駄だし、人格を損ない、疑われるだけである。
それでも僕は色んな小説を読んで、アニメを視聴するのが好きで、だから妄想を止められない。「この世界」も、「この世界」に存在する僕も、妄想も両立させるには妄想を「可能世界」のそれとして行いながら、「この世界」を愚直に生きていく…これしかないし、できないのである。