夫とともにスローリーを目指して。
最近の私の農作業は、柿の枝とり。
枝を傷つけるような枝や、勢い余って空に向かって伸びている枝をとりながら、柿の収穫を待っている。
「枝とり」は、農作業の中では軽作業にあたるのに、どうも身体の調子が思わしくない。
いつまでも続く暑さのせいか、3カ月前から残っている膝痛のせいか、すぐに疲労困憊してしまって、思うように作業が進まなかった。
そこで、意識して、身体をゆっくり動かしてみることにした。
今まで身体にしみついたテンポは、そう簡単に抜けきらない。
無意識だと、脳がまるで指令を出しているように、自分の身体の状態は無視して、ロボットのように、今までと変わらないテンポで身体はうごく。
若い頃とは違うのに、身体は勝手に動こうとするから、無理がたたり、身体に負担がくるのではなかろうか。
3カ月前に、薬剤散布をしていて、膝を痛めたのも、そのせいかもしれないとも思った。
お陰で、身体の調子が少し戻ってきたように思う。
その横で、息子と一緒に山椒の薬剤散布をしている夫が、「膝が痛い」と言い出した。
「若い頃とはちがうねんから、ゆっくり動かないと。
どうしても、今までに沁みついた仕事のテンポって抜けきれへんけど、意識してゆっくり動かな。」
そう言って夫に促したが、私たちは、義父母が農作業を引退してから、二倍速で動いていた位に、忙しかった。
義父母が揃って引退すると言ったのが、ちょうど8年前のこと。
子供たちが大学に進学するタイミングの事だった。
それまで四人で回していた農作業を、ふたりで回すことになって、私たちは、同じ畑で働くことはなくなった。
夫は、一年の半分以上を、農薬散布や除草剤の散布をして回った。
ホースを引きながらノズルを持ち、機械に追われながら、斜面畑を薬剤散布をすることは、容赦なく体力を奪っていくのを私は知っている。
私もタイミングがあえば、手伝える時には手伝ったが、周囲の農家の二倍以上もあろうかという畑を、夫がほとんど作業をこなした。
夫が疲労困憊するのに、時間はかからなかった。
時には義父にあたり、ストレスが溜まっているせいで、私に愚痴をこぼすこともあれば、短気な性格がさらに際立ったこともあった。
「畑の面積を減らそう」と、私は一度だけ言った。
「畑の面積減らせ」と、何度となしに愚痴を聞くのにうんざりしたのか、義父も最後はそう言っていた。
だけど、夫は頑なに首を縦に振らなかった。
やるならやるで、もっと潔くせいや!腹括れや!
なんど、腹の中で毒づいたことかしらない。
なんど、イライラしたことかしらない。
だけど、私は知っていた。
幼少期の成育歴なども含めて、人生でさまざまな失敗や苦労をした義父が、どんな心意気で畑を、周囲のどの農家より広く切り拓いてきたのかを知っている夫が、義父が生きている間は、畑の面積を何がなんでも保つことに拘っていることを。
夫のそんな気持ちを知ってからは、夫が愚痴を吐いた時には、寄り添うだけにした。
そんな夫を支えるのが、当時は辛かった。
ひとりで畑で作業をするのに、不安や不満があり、疲れもあったが、私は何も言えなかった。
体力を容赦なく奪っていく農薬散布が、どれくらい疲れるかのを身をもって知っているだけに言えなかった。
だけど、間違いなく夫にかかるストレスは大きく、少しずつ身を蝕んでいった。
ふたりで畑を回し始めて、5年目。
とうとう、夫の腸に穴があいて、緊急入院となった。
柿の季節で、家に帰ってくるなり、あまりの痛さにのたうち回る夫。
自分で車を運転し、かかりつけの診療所へ行き、そこから救急車で運ばれることとなった。
その時は急遽、働いている勤務先を休んで息子が手伝ってくれたので、農作業は無事に回せることができた。
つぎの年の山椒がなるころには、今までにない腰痛に見舞われ、仕事をするにもやっとのことだった。
息子自身の選択を尊重することを念頭に置きつつ、ついに息子にヘルプを出した。
息子も一緒に農業をしてくれるようになったのは、それから半年以上たった頃の、二年前の春のこと。
今年の山椒の成りは見事なものだった。
寿命が十五年から二十年と言われている山椒は、ここ数年のあいだ、その陰りを見せるように、パラパラとしかならなくなった木が多くなっていた。
今年は、まるで義父の命と共に尽きていくために、さいごの力を振り絞っているかのように、その陰りを見せないような見事な成りようだった。
今年の山椒を見ることなく、義父が亡くなっていったことは残念だったが、私たちはどの畑も荒らすことなく、義父が亡くなるまで守り切った。
きっと最高の形で、義父を見送ることができたと思う。
「せめて社会人を三年ほど経験してから」という予定より、早い時期に継ぐことになった孫である、息子の姿も見届けてから亡くなった。
亡くなる1週間ほど前には、入院を余儀なくされ、夫が病院に送り届ける車中で「畑は減らしていけよ」と言ったという。
「だから」というわけではないが、もうそこまで動かなくてもいいかな。
夫だけではなく、私までが「膝痛」を抱えるようになったのは、そう物語っている気がする。
もう十分がんばったよ。
息子が継いでくれて、ずいぶん楽にもなった。
これから先は、斜面がきつかったり、軽トラの行き来がしにくいところには、新たに山椒を植える予定はないので、自ずと畑の面積は減っていくだろう。
もっと、ゆっくり動こう。
そう決めた。
年をとるというのは、そういうこと。
つい最近まで、身体が動く限り、農業をするのが私の夢だとか何とか言っていたけど、ちょっと弱気になっている50代のわたし。
「膝痛」を抱えて、それが、どれだけ大変な事か、思い知った気がするし、70代まで畑で居た義父母のことが、今更ながらにしてすごいなと思う。
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