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唯一、夫の思いやりを感じること

今年の彼岸も、父が祖母と共に眠る墓と、母方の祖母の墓参りに行ってきた。

1年の内で、盆と彼岸だけは、市内へ墓参りへ行くのが、慣わしになって、もう何年もたつ。

嫁いできて、実家だけではなく、墓参りとも疎遠になっていたが、父方の祖母が10年ほど前に亡くなってからは、欠かさず連れ出してくれる。

片道小一時間かかる市内まで行くその時、決まって、夫は突然言い出す。


おい!お前のところの墓、参りにいっとこか。


えっ?!


罰当たりかもしれないが、私は「お盆」だの「彼岸」だの、特別な感情をもっていないので、突然入る予定に戸惑うが、とりあえず急いで外出の用意をして、軽トラの助手席に乗り込む。

畑の際に成っている、「樒」だの「びしゃこ」を採りに寄り、市内に向かう。


それぞれ15分ほど離れている、父方と母方の両方の墓へ参る。

「今日も、連れってもらって、参りに来れたよ」と報告するのも、毎回のこととなった。

墓の周りをきれいにして、墓花を供え、手を合わせると、信仰心のない私でも、厳かな雰囲気をかんじ、清らかな気持ちになり、何より祖母や父に会えた安堵感が湧いてくる。

「また、くるからよ」と、さいごに語り掛けるのも、いつものこと。

そして、晴ればれとした気持ちで、墓をあとにする。


運転できない私を墓参りに連れ出してくれる夫に、年を重ねるごとに、感謝の気持ちをかんじるので、そこは必ず言葉にして「ありがとう」と車を降りることにしている。


帰り道は、コンビニに寄って、おにぎりや菓子パンを買い込み、頬張りながら帰ってくることも、楽しみのひとつ。

私たちは、年間通じて、外出らしい外出をしない。

週に一回の買い出しと、数か月に一度の美容院、私の持病の定期健診位なもので、旅行も行かない。


子供が大きくなり、手が離れたところで、コロナも追い打ちをかけ、めっきり遠出はしなくなった。

年に数回の墓参りだけが、唯一の外出とも言えるかもしれないだけに、年々気分は違ってくる。


少しワクワクするし、相変わらず車中で盛り上がる会話は、際立って楽しく感じるし、滅多に食べないコンビニのおにぎりや菓子パンは、とても美味しい。


滅多に、妻のためにと動かない夫の、行動も際立ってかんじる。

自ら考えて、私に声をかけてくれ、自らハサミをもって、足元の悪い畑の際へ、墓花を切りに立ち入る姿。

週に一回の買い出しさえ、私が言わなければ、連れだしてくれない夫が・・・である。

そして、一切実家と交流のない私への気遣いと、唯一婿としての、責務を全うしてくれようとしてくれていること。


それが、唯一の「思いやり」に感じる。


だけど、墓参りに行くたびに、思うようになった。

あと、何回夫と墓参りに来れるのだろう。


墓参り自体が、「思い出」として際立たせている気がする。


たくさん喧嘩をしてきた私たちだけど、「墓参り」の時には、喧嘩をした覚えがないから、「楽しい思い出」として残るのかもしれない。


息子には、なるべく迷惑はかけたくはないけれど、夫がいなくなって、もし息子が、年に数回、墓参りに連れ出してくれるとしたら。


しきりに、夫と「墓参り」に来たことを、思い出す気がする。


「楽しかった思い出」として。

唯一、夫の「思いやり」を感じた、思い出として。


唯一、私のために動いてくれる、「夫の思いやり」だなんて、夫を褒めているのか、けなしているのか分からないけど、残しておこう、私の思いを。

もの忘れが気になり始めた私だから、感謝の気持ちを忘れないために。


ちなみに、我が家の墓参りは、ずっと義父母任せで、私たちが参るのは、時間のタイミングがあう、その時だけだった。

義父母がいなくなって、私たちに、その順番が回ってきた。


今回からは、ちゃんと、役目を果たしたが、知っている人が眠るお墓だと、手を合わせるときの気持ちも違ってくる。


「義父さん、また来るからよ」

こちらにも、声をかけて、墓をあとにした。


歩いて数百メートルのところにある、そのお墓。

もっと、マメに足を運ばなきゃな。










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