姑との関係を通して「言葉の重さ」に気付いた私が、子供たちにしたこと
義母が放ったひと言で、改めて「言葉」の重さに気付いた経緯は、ひとつ前の記事に書いた。
それから、私はより一層、日常の中で、また、子供たちへ放つ言葉にも気を付けるようになった。
「放った言葉」で、その人とのその後の関係性にまで影響を及ぼすことは、十分に考えられる。
自分が思う以上に、相手はそれ以上に重く受け取ることだってあるだろうし、傷つくこともある。
私は、愛情が伝わるように、いつも子供たちへ放つ言葉を選びながら育児をした。
だけど、育児をしながら考えた。
実母から放たれた言葉は、私を傷つけることばかりだったけど、実母自身は、もしかして愛情を込めていたのかもしれない。と。
そうは感じなかったけど、当人は私を傷つけるつもりは、なかったのかもしれない。
私の捉え方が、そうさせていたのかもしれない。
そうとなると、実母が何を思いながら、何を感じながら、育児をしていたのか分からなくなった。
私も、愛情が伝わるように育児をしているつもりだけど、その愛情も子供たちへ伝わっているのか分からない。
もしかすると、子供たちも、いつしか自分の子供を授かり、育児していくうえで、「母(私)は何を考えていたのだろう。何を想っていたのだろう。」と路頭に迷うことだってあるのかもしれない。
そう考えていたのが、子供たちが保育園のころから、10年ちかく続けていたブログの更新が、途絶えようとしていたタイミングだった。
特に小学生のころの子供たちは、目まぐるしく成長を見せた。
子供たちが小学生になると、私もこちらの生活に慣れて、若干自分にも余裕ができたからだろうか。
乳幼児期に比べ、子供たちの日常を通してじっくりと成長を感じることが多々あって、私のまばゆいばかりの想いが綴られていた。
それ以降は、親から見ていても、「新しい発見」は少なくなるし、書き記すこともなくなって途絶えがちになっていたのだ。
子供たちと一緒に日帰り温泉や、ちょっとした遠出をしたこと。
一緒にサイクリングしたこと。
学校で描いた、ポスターや絵がコンクールで入選したこと。
サッカーを通じて、子供たちが成長していったこと。
子供たちが何気なく発した言葉のこと
学校行事を通じて見せた意外な子供たちの一面を発見したこと
あと、仕事を通じて感じたこと、義両親や実両親のことはそんなに書かなかったが、主人とのこと。
これを一瞬で消してしまうのは、もったいない気がした。
ここに綴られている言葉は、その時その時感じた私の本音で、私の感性そのものなのだ。
その時その時感じることは違うから、同じ思いはもしかして二度と巡ってこないのかもしれない。
そうとなると、その「想い」を「ないこと」にするのは切ない気がした。
そこで、私は、10年分たまったブログを全部とはいかないが、抜粋して本にすることにした。
有料でブログを本にしてくれるサービスは、前から気にはなっていたけど、少し手間がかかる気がして、気が引けていたけど、これでブログを気持ちよく閉めることができるとの思いもあって行動に移すことにした。
表紙に、まだ保育園に通っていたころの息子と娘が、地元のお祭りでねじり鉢巻きにハッピを着て、神社で仲良く並んだ写真を選び、あとは記事をピックアップ。
ブログに最後に書き足した、子供たちへの想いも加え、本が出来るのを待った。
注文した本は、息子と娘、私の分の3冊。
息子と娘へは「これを読んでも読まなくてもどちらでもいい。将来、年をとって読んでくれてもいいから、もらってね。」と、それぞれの成人式の日に渡した。
読んでくれるか読んでくれないか分からないけど、これから先「あ、そういえば」と思い出して読んでくれることがあるのかもしれない。
そのとき、私の想いがそのまま伝わるか伝わらないかは分からないけど、子供たちなりに何かを感じとってくれればいいなと思っている。
親からの愛情について考えるときに、何もないよりかは「たし」になると思っている。
と書き記しつつ、「note」をはじめて、あの頃のブログに比べると子供のことはずいぶん減ったけど、今まで残した「note」の記事にも愛着を感じ始めている自分に気付く。