われ思わないゆえに我(2)あり
最近、「自分の見ている世界の解明度を上げたい」と強く感じ、経済学・哲学・物理学をはじめとする幅広い分野の本を読んでいた。読めば読むほど、知識や新規情報をインプットすることで、これまで自分が見ていた自分の日常をよりピクセル(解明度)を上げて見ることができるようになった気がしていた。しかしその一方で、「所詮自分のレンズ(主観的見方)からは逃れられないこと、自分を通してしか、外部の世界を経験できない。歪んだ見方しかできないこと」に悲しみを感じることが多くなってきた。本から情報を得て「理解」する過程も、その理解を自身の生活で「応用・活用」することも所詮「自分」を通してしかできない。
「自分から逃れたい」と思う一方で、では自分から逃れた自分は何になりたいのか、何になれるのかとまた別の問いにぶつかる。「外部の世界(目の前の机や話し相手)を自分の内部表象としてイメージすることでしか理解できない」と理解するその思考すら「自分」から逃れられない。
でもどうだろうか。「自分から逃れたら」それはもう自分ではなくて、思考・思索することも、それを感じることもできなくなるのではないか。だとしたら、もしかしたら私は既に「自分から逃れた」自分をもっているがそれを「自分」を通して認識することができないだけかもしれない。「われ思うゆえに我(1)あり」だとしても「われ思わないゆえに我(2)あり」もう一人別の我があるのかもしれない。