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なぜ私たちはスタバフラペチーノにコミットするのか

スタバに関して三回にわたって書いており、この記事は最終章です。前々回前回の記事はこちらからご確認お願いします

今回も引き続き、「若者は何を犠牲にしてスタバを飲むのか」について考えていきたい。

最終章の今回を迎えるにあたり、かなり悩んだ。どうやってこの不毛な議論に落とし前をつけようかと。しかしながら、私は気づいたんだよ。鼻っから、この「若者は何を犠牲にしてスタバを飲むのか」という問題提起自体が誤りであったと。

つまり結論から言うと、「若者はスタバに何の犠牲も払っていない」

そもそも私はスタバのコーヒーにお金を払っている=金銭的犠牲を払っていると解釈していた。よって、その犠牲は、他の何かを買えたけど買わないで、その分スタバに費やしたという点において、若者達にとって厭わない犠牲であったと初期考察し問題提起をした。

しかし、違う。違かったんだよ。3日前の私

確かに私達は、フラペチーノに600円前後の金銭的犠牲を払った。でも、果たしてそれは私たちの収支表において、-600円と記載されるのだろうか。答えはイエスだ。しかし、どうだろうか。10年20年のスパンで考えたならば、その600円のフラペチーノの見返りとして得られた何かが600円以上の価値をもたらしているのではないだろうか。

そのフラペチーノを携えて勉強したことが将来の給料に反映されたかもしれない。そのフラペチーノを傍に置いて過ごした恋人とのたわいない時間が、その後の結婚へと繋がり、家庭としての経済基盤や家族のために働くという、経済活動に勤しむための新たな動機を得ることにつながったのではなかろうか。

そう、結局は世の中お金が全てじゃないってこと。さらに言うならば、「お金はぶんぶん回してなんぼ」だと。お金を使わない限りは、その持っているお金はただのお金。それを使わなければ、そのお金から新たな価値は生まれない。

経済活動をしなければ世の中の様々な価値は価値として維持されなくなる。(でも、お金って貯蓄することで安心感という一種の価値を与えてくれるのも確かな気がしてきた。わからない…私少し混乱する)


読んでくれてありがとうございます🐰(好きって言ってくれたら嬉しい…ねぇ、好きっていって) by 初音ミクおじゃま虫 多分そんな歌詞あった気がする

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