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辞世の歌の魅力【第3回】 読み手の思いとか

というわけで第3回です。

無理やりタイトルをわけましたが、内容に第二回との差は、ほとんどありません。


第1回


第2回




先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う - 徳川家康

家康は第1回でも取り上げましたが、辞世と言われている短歌がもう一つあります。

意味としては
私は先に行くが、残るお前達を連れていけない。これが別れなのかと実感する
という感じでしょうか?

まあ死とはこういう物なのだという感想を書いていると、一見見えますね。

が、この歌には明確な目的があります。
殉死の禁止です

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%89%E6%AD%BBより


まあすごくおおざっぱに言うと、世話になった君主のため、死後の世界でも使えるために、一緒に死ぬ(自ら命を絶つ)というものです。

殉死自体は戦国の世ではほとんど見られなかったそうです。
そりゃまあ常に死や家の滅亡と隣り合わせの状況では、簡単に死ねないでしょう。

江戸時代になってから、急激に数が増えたそうです。
実際、自分が死ぬときに殉死を禁止した戦国武将の話というのは、結構全国になります。
有名なところでは黒田官兵衛ですね。まあ直接的に殉死を禁じたわけではないですが。
死期が見えたあたりで、それまでかわいがっていた家来たちに、つらく当たりののしることすらしたそうです。
官兵衛的には殉死を禁止したところでするやつ出ることが目に見えてたので、嫌われて殉死しようと思うやつが出ないようにし、跡継ぎの黒田長政を慕うようになるよう仕向けたそうです。

まあ、こういう逸話が残る程度にはそこらじゅうで殉死が行われていたそうです。まあ戦国時代にはあまり行われなかっただけで、古代からあった風習なので。
そして官兵衛がそう思ったように、殉死を禁止しても殉死したという話は多いです。そういうのが美談にされる程度には、殉死はよいことだと思われていたそうです。
まあ死者からしたらたまったもんじゃないけどさ。跡継ぎはたいてい息子だし、というか当時の価値観からしたら血より家名のが大事だけど、生きてその維持や発展のために頑張ってくれと思うわな当然。

実際、薩摩の島津義弘が殉死の禁止を言い渡したにもかかわらず、その義弘の死後に13人が殉死しました。
跡継ぎの島津家久(通称 家久(悪))は主君の命に背いて殉死したものを罪人とし、その遺族は家名のお取り潰しだのなんだので、相当苦労したそうです。
結局、その殉死者および遺族の名誉が回復されるのが13年後。殉死に対する意識が、してはいけないものに変わるまでにそれだけの時間がかかったのでしょう。

また、幕府が公式に殉死を禁止するのは1663年、4代将軍家綱の時代になります。

ところで殉死は古代からあるといいましたが、少なくとも古墳時代にはあったようですね。
遺骨も多く残っていますし。
フィクションの話になりますが、手塚治虫の火の鳥(大和編)がそのあたりの話ですね。
父である大君が死去。そこで多くの人が殉死していけにえになることになるので、息子のオグナが殺させないようにするために、飲めば不老不死になるという火の鳥の血を入手しようとして走り回ったが、結局自分もいけにえになったという話です。

古代ですとやはり何百人もの奴隷を殉死させると人手が足りなかったようで、代わりに埴輪を埋めるようになったようですね。


卑弥呼が呪術士だったと魏志倭人伝に記されていますが。
何もわからない時代に確信をもって何かを言える人が居たことは重要ですし、もしかしたら埴輪とかに説得力を持たせるために呪術師に力を持たせる必要があったのかもしれません(まあ埴輪は卑弥呼より後のはずですが)

余談にはなりますが。
埴輪とよく似たものに土偶がありますね。と言っても、土偶は埴輪よりは数千年(下手すりゃ1万年)前の時代の物になりますが。


土偶は欠損したものが多いので何らかの呪術に用いられたとか、女性を模したものばかりなので出産に関するなにかとか、あるいは古代は女尊男卑の世界だった証拠だとか、いろいろなことを言われますが。
しかしながらなぜつくられたとか、どうしてこのデザインなのかとかわからないことが多いです。

が、近年新説が出ました。
土偶が様々なデザインがあるのは、その地方でよく食べられた食料を擬人化したものだからだ、というものです。


ハート型土偶


そのデザインもとになったといわれるオニグルミの断面


中空土偶とシバグリ


縄文のビーナスとトチノミ


遮光器型土偶は里芋ではないか?ということ

20年ほど前に日本のエロゲが、三国志の登場キャラを美少女化させて、中国から国辱ものだと批判を受けた事件がありました。
それに対し日本側は「江戸時代に傾城水滸伝で水滸伝を美少女化してるんだから、江戸時代から数百年つづく伝統だ」と反論してました。反論になってない
近年ではウマ娘の競走馬美少女擬人化を批判している人がいました。

しかしこの説が正しければ、日本人がなんでもかんでも擬人化美少女化するのは、1万年もの間つづく、DNAに刻み込まれた伝統だということができます。殉死の伝統なんざ目じゃねえ


ちなみに私はこの説をすんなり受け入れたんですが、その理由として学芸員を若いころにやってたうちの妻が、この説が発表される数年前から同じ説を唱えていて、私自身納得していたためです。

もう少し細かく、というか妻の唱えていた説を正確に書くと

現代でも一部部族は太った女性を、家が金持ちである証拠として、非常に魅力的とみる風習がある。
縄文時代も食糧調達が不安定なので、同様の風習があったと考えられる。
特に上記のような食料を主食にしていたら、縄文人はやせて小柄だったとしか思えない。それは発掘された骨や歯からも裏付けられている。
しかしながら土偶は骨盤等から間違いなく女性、それも当時の食糧からは考えられない豊満な女性で、セックスアピールを強くしている。

つまり、土偶は当地の食糧を擬人化したエロフィギュアではないか?というのがうちの妻の唱えていた説の全貌です。主食を擬人化しておかずにするとはこれいかに?



まああれだ。4代目まで公式に禁止できなかった殉死を、初代家康がちゃんと禁止してたんだな、と(まとめになっていない)



限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風 - 蒲生氏郷

次に紹介するのは、蒲生氏郷の辞世です。
この歌が辞世における白眉と評価する意見は結構見ます。その意見に私も同感です。

蒲生氏郷自体は、戦国好きには常識レベルの有名武将ですが、一般的には比較的マイナー武将に分類されるのではないでしょうか?が、同時代における彼の評価は、かなり高いものだったようです。

元々は近江(現滋賀県)の豪族で、主君の六角氏を織田信長が滅ぼした際に、蒲生氏は織田氏の傘下に入っています。
まだ幼少だった氏郷は、人質として信長のもとに差し出されているのですが、その聡明さを信長はたいそう気に入り、信長の娘婿になっています。人質なんて山ほどいる中でこれ、かなり破格の待遇です。

信長の死後、秀吉の配下となっていますが。
ある時、秀吉が重臣たちと話しているときに、100万の大軍を率いさせるならだれに任せるかという話題になったそうです。
重臣たちは家康や前田利家などの大身の大名の名を挙げたが、秀吉は迷わず蒲生氏郷の名を挙げたようです。
その高評価にたがわず秀吉は、対東北の要衝となる会津の地の支配を、氏郷に任せています。
ちなみに現在でも観光地としてにぎわう鶴ヶ城は、氏郷がたてさせたものです(現在のは再建天守だけど)

また、文化人としても高く評価されていました。
利休七哲という、数多くいた利休の弟子の武人の中でも、トップの七人に数えられています。というか、その七人の中のさらに筆頭でした。
利休をして「氏郷様は文武を兼ね備えた武将の中で、一二を争う存在だ」と評価しています。

で、その氏郷の辞世の歌は
まだ花は咲いているのに散らせてしまうとは。なんて心の短い山風だ
という感じです。まあかなり意訳が入ってるけど。

この歌の秀逸なところは、別に辞世の歌じゃなくても普通に通用する秀逸な作品であることです
ここまでの辞世の歌、テーマきめて取り上げてきたけど、ようは直接的に人生ははかないだのこの世を去るだの書いてるんですよね。

でもこの歌にはそんな表現は書いてありません。ただ満開のまま花が冷たい風に散らされる、美しい光景を描いているだけです。
にもかかわらず、これが辞世の句だという注釈をつけてみると、その無念さがはっきりと伝わってくる作品なんですよ。

まさに蒲生氏郷という男の非凡さを、自ら描いているのかと



むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前 - 織田信孝


というわけで、織田信孝の辞世です。
織田信孝は信長の3男です。
ただ次男の信雄よりも本来は先に生まれたけど、信孝の母の身分が低いために3男とされたという俗説があります(現在は否定的な意見が多い説であるようです)
実際、信孝は優秀で、しかし血統の関係で3男とされた(=血統主義が害悪だという意見)と言われていますが、この辞世を見たらそんなことなくこいつ無能の極みやん、生き様クソだぜ?と感じさせる作品になっています。
辞世が生き様を表すというこの一連の話からすると、最低の辞世です

さて、この辞世の意味を解説するには、源平の合戦の時代の逸話をお話しする必要があります。

源氏の総大将 源義朝の配下に長田忠致という人がいました。
源義朝は平清盛に敗れて東国に落ちのび、苦境に陥っていました。
その義朝は、長田忠致の治める内海野間という土地に逃れ、保護を求めます。
長田忠致は義朝を受け入れるのですが、あっさり裏切って義朝を殺害し、その首を平清盛に届けて平氏に恭順します。

その後、源義朝の息子である源頼朝が挙兵し、平氏を攻め立てます。
が、平氏の下に走っていた長田忠致も源頼朝の配下になります。

父の仇である彼を受け入れるべきではないと、頼朝の家来たちは頼朝に意見するのですが、当の頼朝は自分の下で働くならば過去は問わないとし、「しっかり働けば美濃尾張(の2国)を与えよう」と口約束します。

その後、ご存じの通り頼朝が平氏を滅亡させるのですが、長田忠致に対しては「では約束通り身の終わりをくれてやろう」と、処刑してしまいます。

で、信孝が処刑された場所は、長田忠致が主君である源義朝を殺害した内海野間です。

その故事を合わせて考えると、「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前」という辞世は解説すら要らないかなと。
あえていうなら、「主をうつみの」という部分のうつみは「内海」と「討つ身」をかけてるのかなと。あとは羽柴筑前というのは、羽柴(筑前守)秀吉の略ですよとか。

まあ辞世においてそんな古い故事が出てくるあたり、学があった人なのは間違いないでしょう。
しかしながら、自分の人生全てを振り返って反省するでもなく、恨みを何か別のことでうまく表現するのでもなく、ストレートに「報いを待てや羽柴筑前」と言っちゃう辺り、どうしようもない生き様です。

で、もう一つ信孝が勘違いしてることがあって。
信長って早い段階で織田家当主を引退して、長男の織田信忠に家督を譲ってるんですよね。
と言っても信長は一線を退いたわけではなく。
どういうことかというと、信長は現代風に言うと、織田グループの会長という扱いです。
で、その織田グループの中核ともいえる企業が織田信忠社長の織田銀行で、その他に織田グループには柴田商事、明智重工、羽柴自動車などがあるといった感じなんですよね。

で、織田信孝はあくまでも織田銀行のナンバー3か、もしくは織田銀行子会社の社長でした。
信長と信忠の死後も、信長会長の後継候補ではあったかもしれませんが、立場としてはあくまでも織田銀行の社長にもなってない状態です(信雄と争っていたから)

なので信孝は秀吉の主君ではありません。

そう考えると、評価に値しない辞世だと思いませんか?
私には甘やかされたボンボンにしか見えません。

むしろ家名存続させただけ、無能と言われ続けた織田信雄のがはるかに優秀ですわ。



余談ではありますが、長男 信忠は影が薄いです。
また元来、本能寺の変で無駄死にしたことから、この人も無能と評価されてきました。それがゆえに信孝が高評価された節はあります。

が、その他の地味長男ズ(毛利隆元 真田信之)と同様に、織田信忠も織田銀行という大会社で頭取として無難以上に業務をこなせるだけの、水準以上の能力があったといわれます。

本能寺の変で横死したのも、明智光秀の能力を正確に評価した結果、すでに包囲されている可能性が高く、逃げて無様につかまることで織田グループの求心力を低下させるのを防ぐためという説もあったりします。

とはいっても秀吉が信長と上記の蒲生氏郷を比較して
「氏郷も戦名人だが、2500の軍を率いる上様(信長)と、1万の軍を率いる氏郷では、氏郷軍の方が相手をするにはたやすい。1万の兵の戦闘五人も殺せば総大将の氏郷は討ち死にして1万の兵は壊走するが、2500の兵の内5人も逃がしてしまえば、その5人の中に上様はいる」
としていました。

そういう意味では、なんとしても生き延びようとしなかった信忠は、信長に似てなかったし、甘さがあったといえるのでしょう。
現にこの時必死でい逃げまわった家康が、後に天下を取っていますし。



曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く - 伊達政宗


ご存じ独眼竜正宗です。マザコンな上に、母子そろってヤンデレです。情報量多いな

戦国武将としては、パブリックイメージと違って残虐さや陰険な策略の印象が強い人です。

が、現代においても伊達男という言葉が残っていますが、非常にかっこつけていた人としても有名です。

伊達軍の兵の装備の華美さは群を抜いていて、京の町の馬ぞろえでは大変な歓声を浴びたそうです。

また有名なところで、北条攻めの際に、秀吉の参戦要請を無視して、漁夫の利を得るために国元に残って兵の準備をするという挑発行為をしています。
しかしながら小田原の趨勢がはっきりした状態で秀吉に謝るために、白装束を着て(いつでも腹を切れる状態で)秀吉の前に現れて啖呵を切るというパフォーマンスをして何とか切り抜けています。クソカッコ悪いな

またその後、隣国での一揆を扇動するというマジヤバい行為が秀吉に発覚し、謝りに行くときに白装束を着て金の巨大な十字架を背負って街を歩いて秀吉の下へ向かうというパフォーマンスをし、今回も何とか首の皮がつながっています。てか反省しろよ

あと直接関係ない話だけど、大坂夏の陣では鉄砲隊で敵を打つときに、味方の神保軍もろとも銃撃して壊滅させてますね。
家康に怒られるのですが、ここでも強気で筋の通らない言い訳をして押し切っています。

そんなわけで、僕は伊達政宗という人は悪い意味でカッコつけている人という印象なんですが、辞世もクソみたいにスカしてやがります。

雲ひとつかかってない満月のような自分の心の光で、暗い道を照らしながらあの世への道を歩んでいく

という感じです。

僕、伊達政宗という人はかっこつけすぎててカッコ悪いと思ってますけど、ここまで最後まで筋を通してカッコつけられると、むしろかっこいいですよね。


というわけで第3回でした。

もう少し紹介したい辞世の歌はあるのですが、1つの分にするにはまだ分量不足なので、一旦区切りとします。

もうすこしネタがたまったら、第4回は書くかもしれません。


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