Notes of a Dirty Old Man
どちらにしても、昨日のことですが、
事務所は日曜はお休みですし無理をせずにとのことで、
私も書き継ぎを休んだ。
2020年の三月に始めた書き下ろしの入力の時は五月の中頃まで、
二時間程を二ヶ月半程休み無しだった。
年末からの心身ともの体調不良を事務所の方が気に掛けてくださっての、
お声掛けでしょう。
まだ七十歳の頃だった。今は七十三歳、時は経って行くし、
あの頃の元気は無い。一時間程が精いっぱいだ。
この頃はいくらか頭も回り出したけれど、
独りもん、ボケるが心配でスマホでゲームを始めてみた。
簡単なものですが、麻雀のパイを揃えるのと、
同じ色にドットを繋げるの、スゴイとかコメントが入れば嬉しい。
そんなこんなで昨日一日が経って行った。
締めは九時からの山口さんのニコ生のやつ、終わり近くで寝入ってた。
ゲームのやりすぎでくたびれてるんじゃ、埒も無い。
そうそう今日の分は、
どちらにしても二十年程で自営業は失くすんだし、家庭生活もね。
奥さんからつまらなく訳の分からない話しを聞くまでの四五年は、
私の心の内での主に仕事に対しての有象無象は有ったにしても、
家庭は癒しの場ではあったはず。
その家庭さえも、私の質故でしょうが、私が我慢をすればとの思い込みが、
私の心に澱を溜めだしたのでしょう。
たばこは上の学校に上がってから数度試しただけで、意味の無いものと、
想い決め以後は口にせず。
酒は仕事を始めてから、瘦せ過ぎだと父にも勧められて呑みだしていた。
ただ訳の分からない話しを聞かされ、
私が我慢をすれば良いのだからと思い出してからは、
酒量も増えたし奥さんと顔を合わせたくないとの思いもあり、
出掛けての酒の機会も増えたよう。
私の質、誰に相談するでも無く、心の中に沈み込む。
生みの親が居れば何て考えてもしょうも無い。
四十年も前の話し、精神科の先生に相談なんて無い話しだった。
誰か教えてよ、私はどうしたら良かったのかを。
私の父親と合わないから子供を作りたくない、
何て話しをどう対処し解釈すれば良かったのかを。
三十歳の頃のこと。
若いから何とか日を送っていたんだろうし、
忙しい仕事に紛れてもいたはず。
あの頃は、私は現場を仕切っておりましたし、
父は金のことと、仕事の受注が分担だった。
五十人六十人のミシン場に仕事を回して行くのは難儀なことだった。
昼も夜も無かった。
精神の平衡は少しずつ少しずつ失われて行ったのでしょうし、
慢性の方がきついのでは、と思うのは素人考えでしょうが。
1950年生まれで、
世紀末に掛けての四十五歳の頃に仕事も無くし、家庭も捨てたのだけれど、
まだ善き方へのチャンスが有ったのでしょうが、
精神の不安定と片付けるのは簡単でしょうが、
ことごとく無くするまでのお話しを今少し続けさせてくださいな。
~~続きます。