Notes of a Dirty Old Man
昨日は日曜日、お休みをいただきました。のんびりしました。
どちらにしても、先日に73歳になり記憶は世紀末前の45歳の頃のことまで、
進んでおります。
三十年程以前のことで、忘れ果てていることも多いのですが、
工場から少し離れたところに新しい商業高校があり、
その近くの下宿に住まいしていた時の思い出。
月々の金を出せば食事も付き安直に暮らせる気安さからでしょうか。
下の子供のいるとこの近くにとの思いもあったのでしょうか。
上の子は中学を終えただけで家を出ておりましたが、
たまに本屋で立ち読みの折に見かければ求めるゴングですか、
偶さかに記事を見かけて求めたものを同宿の子供たちに見せたくて、
部屋に置いていた。
そんな折に五人程の以前の仕事をして頂いた女性たちがいらして、
突然に食事に誘われたのだけれど、
彼女たちは私のそんなことに至った事情を理解して頂いたのでしょう。
私と父親は没交渉でしたし、
工場の人手への譲渡は私の責任において行ったこと。
父と性格が同じで気安く連絡を取り合っていたのでしょうが、
何事によらず面倒見の良い弟から、
亡くなったとは聞き知っておりましたけれど、
長男の私が喪主は定めですが、私が金はないは知っていて、
自分が段取りを全てするからただ座って居てくれば良いからと言われても、
経緯が経緯で、出掛けなかった変わった人間、世間知らずの私。
そんなろくでもない私への、事情を知ってのお誘いだったのでしょうね。
独りぽちの私には涙が出るほど嬉しかったこと。
それで出掛けた居酒屋でしたか、父への弔い事。
割り勘でが最初の話し、最後は持ち金が少なくご馳走になった落ちが付く。
何の仕事をしていたのやら、思い出せないままです。
私は自分が二十五の時の子どもが口癖の親父、私が四十五の頃のことなら、
亡くなったのは七十歳の頃のことでしょう。
どちらにしても、私を聞き知っている方の多い小さな町。
何時までも居られる訳も無いし、良い仕事もあるじゃ無し、
捨て去るように隣町の大きな街に引っ越した。
縫製工場が家業でしたからミシン屋さんとのつながりが深く、
引っ越すと私の前職を知った上で来てくれと言われたこともありましたし、
先輩に良くして頂いたとの記憶も有りますが思いそぐわず去った。
全ては私の手前勝手の思いのままからのこと。
ただ寄る辺なく流れて行くだけだった。
そして、
思い出せるのは車であっちに行ったりこっちに来たりの受験参考書の、
そして仕事で構造は知っていたミシンの営業などなど。埒も無い。
そんなことをしている内に幾らか長く勤められそうな仕事に当たった。
私の質に合っていたのでしょう。
~~続く
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