踊る大捜査線がありえないほど嫌いだったけど許せるようになった話
今日は表題のテーマについて
まんま語っていきますので踊る大捜査線シリーズが好きな人は読まないでください
マジでテーマ通りです
これ書いたら
将来的に仕事がなくなるんじゃないか?という
一抹の不安はあるが
今書かないでいつ書くのか!
室井〇司が公開されているこの瞬間にwww
2000年代の邦画は、フ⚫︎テレビが支配権を握った
ドラマ映画の時代だったと思う
一方、その時ちょうど10代後半から20代前半の多感な時期を過ごしていた映画オタクの自分はとにかく暗黒時代だった
邦画は終わったっと本気で思っていた
映画が2時間のテレビドラマ枠と似たような扱われ方をして金を払えるレベルの映画とは言い難いその作り自体に嫌悪していたのです
自分の基準で言えば映画はそれ単体で成り立っているものでありそもそもキャラクターやストーリーで2時間の間で語りれるべきエンターテイメント作品というのが根底にあり
ドラマそのものの広告塔のような扱われ方をする
テレビ局主体の映画作りそのものに違和感しかなかったからである
(今もその傾向の映画はあるにせよこの時に比べたらだいぶ減った)
自分はすでに中学時代あたりからある意味
熱狂的な映画秘宝読者であり大学入る頃には映画秘宝が毎月のバイブルになっていた
町山さんの評論を追っかけ続け
ラジオはMP3プレイヤーに入れて繰り返し聞いたり
好きな映画はテレビ録画したアクション映画をひたすら擦り切れる寸前まで見たり、ゴジラ映画を繰り返しみたり、家にあった映画ソフトの戦争映画、戦略大作戦や大脱走や史上最大の作戦を繰り返し同じ場面を見たり好きなシーンを抜粋して何度も見たり、燃えよドラゴンを見て興奮して夜眠れなくなったりしているものだった
その中で養われてしまった映画オタク青年の気持ちはテレビドラマのその安い演出で構成された映画とは言い難い代物をみてこう思っていた
なんでこんなクズみたいなドラマ映画が日本で流行ってるように(実際日本映画歴代興収ランキングに入っているので仕方ないのだが)広告戦略で売られて、さも全ての人、全ての映画好きさえ踊る大捜査線か好きみたいな扱われ方をしているのかほとほと疑問でしかなかった
追い打ちをかけたのが
踊る大捜査線のテレビドラマの度重なるスペシャル放送や再放送、そして映画宣伝である
自分としてはテレビから
そのせいで映画が消えてしまったように思ったのである
しかし
本当に死ぬほど勝手な論理であるw
なぜなら
金ローもあったし、今も続く午後ローもあったw
しかし…勝手なもので
その怒りの筆頭の矛先は常にドラマ映画の前線を走っていた
踊る大捜査線に向けられていたのだ
踊る大捜査線の映画一作目を見た時はまだ納得できた
しかし
自分の呪いを倍化させていったのは映画2作目からである
映画として成立してるとは到底思えん出来にとにかく腹が立った
特に宣伝ポスター
これについては一作目からだが
アクション映画のようなフリをして膝カックンを常に見させられ続ける気持ち悪さに吐き気を催すレベルであった
踊る大捜査線のコンセプトそのものが今までの刑事ドラマのアンチテーゼだったり、警察機構のシステムの矛盾を描いたりするものだったりするもので
今までの刑事ドラマのアクションだったり銃をバンバン使ったような
お約束を排除した演出を楽しむ作品であることをわかってはいるとは言え
映画になった途端にその表現の形骸化ぶりに気持ち悪さと怒りを覚えたのである
そもそも自分の世代である90年代キッズ世代は
刑事ドラマのお約束そのものをリアルタイムで見てこなかった世代であり
地元のローカルテレビ局のチャンネルでたまたま再放送していた西部警察を見て…
なんだこのアクションドラマはこんなに楽しくて面白い作品がテレビで流れていたのかと驚愕したのであるからして…
踊るを見たときの
むしろ何を表現から逃げてんだ?など思っていたのである、こんなことするくらいなら正面から描いた方がいいじゃないかと
まあそんな自己都合のことはどうでもよく
踊るは踊り続けるのは当たり前のことではあるのだけども
それにしても…
追い打ちをかけるようになまじ踊る大捜査線が売れてしまった手前、それに続くように、海猿などの公開で似たようなドラマ的演出手法を雑に切り取った映画が作られるようになってしまった
とんね⚫︎るずの映画だったり、ルーキー⚫︎だったり、、
フ⚫︎テレビ主催ではないが現在Amazonプライムで配信中の20世紀少年もそうである20世紀少年に関しては原作が好きで全巻見ていたので余計に映画の出来に腹が立った
今思えば、大ヒットした(してしまった)踊る大捜査線のせいで、クソ映画(失礼)を乱立してしまうビジネスモデルがよしとされるのもビジネス的に考えれば作れば売れる状態なのだからそりゃどんなことがあっても作るでしょと言わざるおえないのだが
そういった映画が増えれば増えるほど自分の心は擦れていき荒んでいったのである
まるで大好きな映画を目の前でレ〇プされている気持ちになっていったからだ
正気か?これは映画なのか?
なんだこの映画は?映画のスクリーンをビリビリに引き裂いてプロデュース陣と監督陣の口の中に放り込んでやりたいとか思っていたほど憎んでいたのである、ブライアンデパルマ作品のDVDを粉々にして飲ませてやりたいなど思っていた
(やばすぎる思想なのは重々承知)
映画とは、自分にとって、
リドリースコットのグラディエーターだったりウォシャウスキー兄弟(今は姉妹)のマトリックスだったりロメロのゾンビだったり、スピルバーグ の映画だったりキャメロンのターミネーター だったり、、
なんならB級映画でも愛すべき面白くない映画だってたくさんあった
映画は
とにかく深くて面白くて楽しくて夢を与えてくれる純粋に表現とドラマとキャラクターとアクションやサスペンスやその時間分そこに没頭できるはずのものだったのにテレビドラマの安い御涙頂戴や安いウェルメイド感や安い膝カックンを見させられるようなそんな媒体じゃねぇんだと勝手にキレまくっていたのである
ただ、ある時
踊る大捜査線を好きと公言している人をひょんなことから目にしたのだ
当時、mixiが全盛期。
みんなが好き勝手に日記を書いていた頃
mixiで友達同士になった人が踊る大捜査線を好きな気持ちが書かれていた
どんなことが具体的に書かれてあったかはあまり覚えていないのだが
温度感として熱いものが伝わってくる内容だった
それは自分が映画そのものを好きなように踊る大捜査線もまた
それくらいの熱量で好きな気もちがつらつらと続いており
最初は嫌悪する気持ちも読み終えるころには
それも忘れていく内容だった
踊るそのものの魅力は人それぞれ
それ自体を恨んでいくよりも自分が好きなものを
穢されているという気持ち自体はなくそれ自体に意味がないという事に
その感想を見て気が付いたのだ
踊るを好きな人たちにとってもまた
どんな作品であれ
それ自体が映画の劇場で公開されている
そしてそこに足を運ぶ人がいて
自分はそうではない事であることに
むしろ喜んでもいいのであり
要は、すみわけ、でもある
つまり
映画の出来不出来にかかわらず
自分自身の気持ち自体に抵触することは
ないのだ
そのことに気づいたときに
踊る大捜査線への呪いはいくらかすくなくなった
しかしその呪いは同時になくなったわけではなく
今現在公開されているシリーズ作品に対して
複雑な心境になることは拭い去れない事柄ではもちろんある
しかしそれもまた自分の人生の色どりとして
あの頃はこんなことがあったなと思える思い出の一つとして
刻まれている
何より
昨今の踊るシリーズを見ると
あの時の勢いを無くした
もはや、ほぼ見えている地雷とかしているシリーズを
恨む気持ちを抱くほどの映画ではなくなっていることに
安堵しているのかもしれない…笑
あとがき
あの頃の映画そのものに
自分を怒らせてくれた時期もないので
感謝しているとも言えるなっと
今となっては思ってます笑