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そばめしよ、こんにちは


年内は日本です。関東は11月と思えない暖かさ。久しぶりに一週間の日記。

2024.11.11 月
今週は仕事で関西出張だ。灘駅(神戸市)で未知との遭遇。

坂がある街はいいですね。



2024.11.12 火
関西には「そばめし」がある。そばめしは、短く切った焼きそば麺と白米を混ぜて鉄板で炒め、ソースで味付けした神戸市長田区のB級グルメだ。元々下町の工場の従業員向けの食べ物だった。従業員たちが持参した冷やめしを、注文した焼きそばと一緒に店の鉄板で混ぜ合わせてもらい、温めて食べたのが始まりらしい。

小さな頃、神戸の垂水に住んでいたことがあって、家で時々食べていた。母が作ってくれたんだと思う。でも、名古屋に引っ越して、いつしか食べなくなった。今回十年ぶりくらいにそばめしと聞いて、ご当地グルメだと初めて知った。木曜日に関東へ帰るまでに食べる機会があるだろうか。

神戸に住んではいたけど、そこは子供時代のこと。尼崎と大阪の位置関係のような常識も最近まで知らなかった。それでも、坂道に、山と海の近さに、なつかしさを微かに感じる。記憶の痕跡が粒子となって町を漂っているような気がする。


2024.11.13 水
早起きが苦手だ。翌朝早く予定があると、寝坊しないか緊張して前夜の眠りが浅くなる。スマホの目覚ましを4回はかける。それでも鳴らなかった場合が心配だ。それくらい朝起きられない。

宿が海沿いにある。受付で「早起きして、ジョギングしたら気持ちいいですよ」とチェックインの時に言われた。「最高でしょうね〜」と調子を合わせた。でも、絶対にジョギングすることなく帰ることになると分かっていた。そして、その通りになりつつある。



2024.11.14 木
出張終わり。帰る前、念願叶って、三ノ宮駅へそばめしを食べに行く。センタープラザの地下にある小さなお店。カウンターの一人席にも鉄板があって「関東のお店にはあまりないですよね」と一緒に来た上司と話をする。

薄焼き卵でこんもりと包まれたそばめしが運ばれてくる。よーし食べるぞ、とヘラで切ったら、中は焼きそばだった。あれ? 店員さんが注文を取り違えてしまったみたいだ。なんたる不運、せっかくのそばめし、だがこれも運命か。

すると、東京出身の上司が「作り直してもらおう。関西にはなかなか来られないからね」と力強く立ち上がった! お店の人も快く作り直してくれた。そんなわけでそばめしにありつく。美味しかった! 満足満足。僕一人だったら、言わなかったと思う。

最初のオムそばも頂いたので、上司と二人で三人分の粉物を食べた計算だ。猛烈に腹が膨れて、夜はほとんど食べなかった。



2024.11.15 金
今読んでいる本で見つけた文章。主人公が恋人に別れを告げ、一緒に暮らしていた家を飛び出したあとの一節。

ぼくら二人はね、マーガ、一つの構図を成しているんだ、きみはある場所の一点、ぼくは別の場所の一点で、互いに排斥しあいながら、きみがいまおそらくユシェット通りにいるとすれば、ぼくはいま誰もいないきみの部屋でこの小説本を見つけているし、あす、きみがリヨン駅にいるとすれば(もしきみがルッカに行こうとしているだならだけどね)、ぼくはシュマン・ヴェール通りにいることだろう。

フリオ・コルタサル. 石蹴り遊び. 土岐恒二訳. 水声社. 2016. p.223.




2024.11.16 土
最近売れている文章術の本を買って読んだ。評判もよく、期待したが、僕は良いと思えなかった。

自分がおかしいかなとか、なぜ他人は同じように感じないかとか、考えた。世間で良いと言われるものを良いと思えなかった経験って多分だれでもある。好き嫌いと言えばそれまでだが、最近はその理由をもう少し言語化しようと思っている。

嫌いなものと好きなものでは圧倒的に好きなものが大事だが、嫌いな理由は好きな理由と同じくらい大切だと感じる時があるからだ。

この本の場合、大きいのは「罪深さ」かなと思った。
文章術は自然科学ではないので、事実と解釈の境界が曖昧だ。最大公約数的に正しいとされるセオリーやルールはある。例えば「意味が正しく伝わる」や「読み手の想像を掻き立てる」など。その手段として、文法や作法があり、それには、正解も不正解も(限られたジャンルの中という条件付きで)存在する。

でも、これが「どうすれば自分だけの文章が書けるか」というレベルでは、事情が変わってくる。僕は、必勝法はないと思う。書き手ひとりひとりが文章を磨き抜いて読者に問うしかない。その過程で「自分にはこんな文章が書ける」「こんな文章しか書けない」を繰り返して学んでいく。

ところが、作者はこれらのセオリーがある部分とない部分を混ぜて、すべてにセオリーがあるように書いている。「こうしたらうまく書けるよ」よりも「こんな文章はだめだ」が圧倒的に多い。著者が元新聞記者で、他人の文章を直すという文化の中で長年生きてこられたからかもしれない。でも、文章を本格的に書いてみようと思った人がこの本を読んだら、本当は書ける人も、書く前にあきらめてしまうのではないかと思う。罪深いというのはそういう意味だ。

全編を通じて、書くという行為・主体が限定されたプロフェッショナルな技術としてブランディングされている。それも大切な側面だ。でも、書くことをそれだけに限定してしまったら、つまらないよね。書くことはもっと身近で広がりのある遊びだと僕は思う。この日記みたいにさ。



2024.11.17 日
断面のきれいなクロワッサンを食べたよ🌀

今日は鎌倉に来ています。皆さんもよい日曜日を!



(おわり)

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