秋にしたためる「秋だ」という散らし書き
数日前に日本にお住まいの方に「日本は秋を素っ飛ばして冬が来た感じなのですね」などという書き出しでメールを差し上げた。翌朝、車道に沿って並べてあるリサイクルボックスに向かったところ、ボックスの口の部分が凍って固まっていて私の分別ゴミを受け入れてくれなかった。冬の到来は他人事ではなかったらしい。パソコンを立ち上げたら-2℃と表示されていた。
六月に描いた水彩画で「いかにも秋」な絵が一枚あって、noteで公開するのは小説の挿絵に使えばいいか、と思っていたら秋に始めた連載は正月の設定だった。それなら「秋が好きだ」という雑記でも書いてその扉絵にすればいいやと思っていたら、そんな日記や雑記には手が回らないほど忙しくなった。しかし小説の連載は止めたくないし、コラボ自慢もしたい。
かくして秋に入ってからの私の投稿は「連載小説とコラボ自慢しか書いてねえじゃねえか」と突っ込まれても「おっしゃる通りでございます」としか返しようがない状態になっている。
日本の気候も地域によって様々だと思うが、私の棲息する地球の反対側では十月には順調に秋が来ていた。
私は秋が好きだ。殊に冬の気配を感じられるようになってくる晩秋。この時期が一番良い。もっと言えば秋だけではない、私は季節の変わり目が好きで、一年の四つの変わり目の中で秋から冬が特別好きなのだ。
前述したように、私の棲息地では順調に秋が来ていた。しかし秋を堪能した実感がない。実感がないまま凍ったリサイクルボックスに反撃された。
秋を秋らしく楽しんだ気がしない原因の一つに新年の挨拶カードのデザインの依頼が九月にやって来たことがあると思う。依頼が来たことに文句を付けているのではない。仕事があることは有り難いことである。しかし九月と言えばまだ一年の三分の一が残っている時期だ。それなのに私の頭からは龍がひゅっと飛び立ち、蛇がにゅるりと侵入してきた。
そしてこれも重複するが、八月中旬に執筆を始めた連載小説は年明けから始まる。これも脳みそが正月に波長を合わせてしまう原因のような気もする。
ああ、でも俳句のご企画で三句ほど秋の季語で詠むことができたな。なんだ、ちゃんと秋らしいこともしているじゃないか。
そう言えばこの秋公開で一瞬で上映が打ち切られそうな映画も見に行ったじゃないか。
紅葉だって描いた。
バス停に落ちて積もったイチョウの葉はやっぱり臭うなと思ったじゃないか。これだって秋にしか抱けない感想だ。
……何が言いたいんだコイツと思われてもしかたがない駄文の羅列だが、この記事の文章はあえて推敲しないことにする。自分の僅かばかりの日本語能力を駄文雑記などに消耗している余裕はない。本記事の目的は「いかにも秋」な絵を載せることにあったのだ。それは果たされた。
【おまけ】
三週間ほど前に描いたのですが、現時点で独立した「墨で鳥」の記事を投稿できる気がしませんので、こちらでお披露目。半紙に描いたのですが、上下に余白が大きいので写真はトリミングしてあって、24 x 28 cmくらいの比になっているでしょうか。