その名はカフカ Inverze 17
2015年1月ウィーン
ヴァレンティンがウィーン市内にも部屋を持っていて、調度品は全てカーロイの会社の製品を揃えているとサシャが耳にしたのは最近のことだ。サシャはそのヴァレンティンの所有するマンションの応接間の窓辺に立ち、改めて部屋全体を見回してみた。確かにアダムが「洒落込みすぎている」と評価を下すのも分かる気がする。どうあれ今カーロイは自分の一番好きなことを仕事にしていて、それで成功しているのだから、親友に何と評価されようと知ったことではないのだろう。それどころかカーロイはアダムの反応を見て楽しんでいる感もある。
サシャが室内の家具に対する講評を一通り終えたところで、玄関の開錠する音がした。応接間のドアから玄関ホールのほうを覗き込むとヴァレンティンがコートを玄関脇のコート掛けに掛けている姿が目に入った。
「やあ、待たせたかい?」
「いや、単に俺が早く着きすぎただけだ。俺の住処はすぐそこだからな。今一人で家具の鑑賞会をやっていたところだ」
「カーロイの会社のショールームとして公開したいところなんだが、あいにく私用のために買い取った部屋だからね、宣伝に使ってもらうわけにはいかない」
「君がそんなにカーロイのところの商品を贔屓にしているとは知らなかった。君は彼が今の商売を始めた時、いい顔をしていなかったみたいだからね」
ヴァレンティンはサシャの言葉を聞きながらサシャが立っている応接間のドアのほうへ進み、ニヤリと笑って見せると
「カーロイの作るものはなぜか購買意欲を掻き立てるんだ。カーロイに乗せられている気もしないでもないんだが」
と答えた。
二人は応接間に入ると部屋の中央の真っ白なテーブルに向かい合うように座った。窓に背を向けるように席に着いたヴァレンティンが
「何か気に入ったものがあったなら譲ってあげよう。ご近所なんだから搬送は簡単なんだし」
と言うと、サシャは今一度部屋の中を見回し
「そうだなあ、俺の趣味とは少し、というか、かなり違うんだが」
と返してから数秒の間を置いて
「しいて言えば、あの絵がいいな」
と右手の壁の中央に飾られている小さな水彩画を指さした。
「さすがだ。君は対象が何であろうと目が利く。あの絵がこの部屋の中にあるもので一番手間を要したものだ」
「そうなのか。もちろん譲れとは言わないよ。何か、有名な画家の手によるものなのかい?」
「いや、そういった価値があるものではない。ブカレストでいろいろ世話になっている画廊があるんだが、そこでの掘り出し物だ。作者の名前を聞いても出身さえ見当がつかなかった。とにかくこの絵を手に入れた後、カーロイにお願いしたんだ、この部屋に揃えた家具に見合う額縁を見繕ってくれ、とね。カーロイは『うちは額装屋ではないのだが』とか文句を言いながらあのような状態に仕立て上げてくれた」
「そんな話を聞いてはますます横取りするわけにはいかないな」
「気に入ったのなら持って行ってもらって構わない」
「気に入った、と言うより、スヴェタが好きそうな絵だなと思っただけだ」
サシャはそう言うと、決まりの悪そうな笑いを浮かべて壁の絵から目を逸らし、ヴァレンティンはそんなサシャの顔を探るようにじっと見つめた。
「最後に会った時より、少し老けたような気がする」
「君と最後に会ってからまだ一ヶ月も経っていない。確かに老いはある時一気に進むという話もあるし、否定はしないよ。君の言う通り、この一ヶ月で俺は確実に老けたんだろう」
「奥さんの気持ちが君に戻れば、君はまた一気に若返るのだろう」
ヴァレンティンがそう言うと、サシャは微かな笑みを浮かべたままヴァレンティンのほうへ目を向けた。
「もしくは、俺が彼女への思いを断ち切ってしまうか」
「最初から僕を頼ってくれれば良かったんだ。どうしたらそんなに長い年月、意地を張り続けることができるんだ」
「俺がどんな意地を張ったと言うんだい?迷惑をかけたくなかっただけだ」
「確かに僕にもロシア特有の作法は掴みにくいところがある。そうであっても半年前に僕が突き止めたことくらいの情報だったらもっと早い時期に手が打てた気がするんだ。彼女がGRUに捕まっているのではないと知った瞬間に君はホイホイと逃げ出す気になってくれたのだからね、あの時は少し目眩がしたよ、なんで僕はもっと早くその辺りのことを探っておかなかったのかと」
「少将の移動がなければ、今も落ち着かない毎日を送っていたことだろう。あの人がドイツで目を光らせている間はやはり逃亡する気にはなれなかったと思う」
「どうだろう。彼のドイツでの任期中に『貴方の過去を知っています』とか言ってレンカにあれを送り届けさせたら、ドイツから動けないまま針の筵に座らされているような気分にさせられたんじゃないか。……今更言ってもしょうがないけど」
そう言うとヴァレンティンは壁の柱時計にちらりと目をやった。それからテーブルの上に両肘をついて顎の前で両手の指を組み、言葉を続けた。
「道中何もなければ君の凄腕君はレンカを連れて今にも帰って来るんじゃないのかな」
「そうか、今回のリンツはスルデャンに全面的に任せたからな、俺のほうには何も報告はなかったが。今のところ計画通りかい?」
「実は予想以上の収穫あり、だ。それはそれで良いことなんだが、おかしなのも顔を出してきた」
「何だ?」
「レンカは少し前から変なおじさんに目を付けられている。別にレンカに危害を加えようとしているんじゃないようだが、厄介なのには変わりがない。癪に障るほど尻尾を掴ませないおじさんだからね。それで、レンカが今回リンツに入った日に、そのおじさんの手下かと思われる輩もリンツに現れた。偶然にしては少々出来過ぎている」
「何者なんだい、その変なおじさんというのは」
「きっと同じ人物なんだろうと思われる大規模な偽造屋の親方の噂を聞いたことがある。たぶんこの人なんだが、確実なことは言えない」
ヴァレンティンの言葉を聞いて、サシャは驚いたようにヴァレンティンの目を覗き込んだ。そして「そう言えばこの男の目からは何も読み取れないんだった」と心の中で苦笑してから
「君らしくない、と言うか、君が本当のことを言っているのなら、信じ難いほどのやり手だな」
とほとんど感動したかのように言った。ヴァレンティンはサシャの目を睨むように見返すと
「君のその反応も充分癪に障る。しかし、僕にも一つ自慢できることがある」
と返した。
「それは頼もしいな、聞かせてもらえるかい?」
「僕はそのおじさんの弱みらしきものを見つけ出した。彼はこちらの業界には一切関わりのない人物を一人、それはそれは大切に囲っているらしい」
ヴァレンティンはテーブルの上に視線を落として数秒間黙り込んだ後、再び口を開いた。
「時に君はカーロイの長男坊君をどう評価する?君はブダペストまで逃亡してきた時に会っているのだろう?」
「急に話が飛ぶな。いい子だよ。演技力は抜群のようだ。あの時俺を追ってきた士官も彼の演技に惑わされてしまったようだし。随分とふざけていたり捻くれたことを言ったりもするが、実のところ非常に素直な、真っすぐな心根の子だ。なぜ今そのようなことを聞く?」
ヴァレンティンは視線をテーブルの上に落したまま
「僕はカーロイの教育方針に文句を付ける気はないし、そんな権利もない。ただ、最近どうも長男坊君は少々軽率な行動に出てしまったらしい。これがただの従業員だったり部下だったりしたら『捨ててくれ』と言って終わらせるんだが、彼はカーロイの息子でありレンカの甥だ。彼の起こした問題に対して僕ができることは何もない」
と努めて感情を抑えているかのような口調で言った。
サシャはヴァレンティンの表情を観察しながら「ヴァレンティンが困っているのを見るのはいつ以来だろう」と心の中で独り言ちた。しかし、こんなヴァレンティンを見るのが久しぶりなのも考えてみれば当たり前のことだ。自由に動けなかったおよそ十三年の間、サシャがヴァレンティンと会うのはヴァレンティンがサシャに頼み事がある時かヴァレンティンが処理した案件の報告に来る時かで、会合はいつも必要最小限の時間しか取れなかった。ヴァレンティンが何かを悩み解決しようとしている過程を目にする機会が全くなかったのだ。
サシャは視線をテーブルの上に落としたままのヴァレンティンに微笑みかけ、
「カーロイのことだ、俺たちの仕事に影響が出る前に手を打ってくれるだろう」
と言った。そしてヴァレンティンがサシャのほうへ視線を戻し、肩をすくめて見せると、サシャは
「さっき話していた変なおじさんのことだが、君はどうやって彼の部下がリンツに入り込んだことを知ったんだい?その部下を捕まえたのならそれを絞って主の居場所なり正体なりを吐かせればいいのだと思うが、それをしないということはその部下は君の手には落ちなかったわけだ」
と言葉を続けた。
「君の言う通り、僕はその変なおじさんの子分を捕えたわけではない。君の凄腕君もレンカも隠れることや気配を消すことにあまりに長けている。だから今回の『姿を晒してくれ』という指示は逆にやりにくいんじゃないかと心配になって、僕も一人だけ送り込んでおいたんだ。そしたらその変なおじさんの子分を目撃してしまったというわけだ」
「状況がいまいち掴めないな。どうしたらその変なおじさんの部下だと判断できるんだい?」
「彼はレンカを見て興奮気味に何者かに電話をかけ、『ハルトマノヴァーが出た』と報告していたらしい。レンカが君の凄腕君と歩いているのを目撃されるのがあの時の目的だったし、僕が送り込んだ男はその子分を見ても何の行動も起こさなかった。リンツの組織からの人間かもしれないとも思ったようだ。ところがそこに本物のリンツの監視役がやって来てその変なおじさんの子分を縛り上げてしまった。変なおじさんの子分たちは一切武装していないのが特徴的だ。どこで何が起きても一般人のふりをするよう教育されているのだと思う。その子分も連行されはしたが、何も知らぬ部外者だと判断されて今頃自由の身かもしれない」
「つまり君がそれを変なおじさんの部下だと判断した材料はレンカを見て興奮していたということと、武装していなかったという点なんだね。少し弱くないか。他からの人間かもしれない」
「そうであっても、レンカの滞在中にレンカを認識できる人間がリンツの組織外からリンツに侵入していたことには変わりがない。気に食わないね」
「その変なおじさんがレンカを付け回す目的は何だろう?」
サシャがそう聞くと、ヴァレンティンは再び肩をすくめて見せた。
「君はそのおじさんはレンカに危害を加える気はないようだと言ったね?」
「偽造屋さんだからね。そもそも暴力を商売道具にしている人じゃない」
「それなら味方につけてしまえば、全ては丸く収まるんじゃないのかい?」
サシャの提案に、ヴァレンティンは呆れたような視線を送ると
「僕たちは偽造品を必要とする機会はあまりないし、何か必要となれば君のところにいくらでも器用な人間がいるじゃないか。だいたい、彼がどんな人間や組織と繋がっているのか分からない。それだけでも危険なのに、相手は鼻の下を伸ばしてレンカの尻を追いかけまわしている変態なんだ。そんなの、気持ち悪いとしか思わない」
と憤った様子で言った。
サシャはヴァレンティンの表情を観察しながら「レンカのヴァレンティンに対する感情は随分と複雑だと思ったが、その逆もなかなか興味深い」と心の中で笑った。それから
「いいだろう。そのおじさんに関して打つべき対策に俺の協力が必要になったらいつでも教えてくれ」
とサシャが言うと、ヴァレンティンも微かに笑って
「ありがとう。言われなくても君に頼るべきタイミングはいつも心得ている」
と答え、顎の前で組んでいた両手を解いた。
「変なおじさんの話で時間を取ってしまったが、凄腕君とレンカが帰って来る前に話し合っておくべきもっと重要な話があったね」
「心配しなくていい。かの客人は厳重に囲ってある」
「不自由な思いはさせていないだろうね。あの人に僕たちが敵であると思われるのは心外だ」
「もちろん待遇はまるで王族だ。外に出られないだけで、満足してもらえていると思うよ」
サシャの返事にヴァレンティンは楽し気な笑顔を見せると、視線を再び壁の中央に飾られている水彩画に移した。
「話し込んで忘れてしまう前に、もう一度君にあの絵を持ち帰ることを奨励しておく。奥さんも今君に無駄に高価な装飾品なんかを贈られるよりよっぽど嬉しいんじゃないか。私の好みを覚えていたのね、とか言って喜んでくれるかもしれない」
「気を使わせてすまないね。ではお言葉に甘えて頂戴するとしよう」
サシャがそう言うと、ヴァレンティンは更に大きな笑みを浮かべてサシャのほうへ視線を戻した。
【地図】