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その名はカフカ Inverze 23

その名はカフカ Inverze 22


2015年1月マリボル

 街の中心部から少し離れた大通りに面した広場の中に建てられているマリボル公共図書館は市内でも一般に公開されている図書館としては一番規模が大きい。最近は目ぼしい本は購入するようにしているマーヤはこの日、六月にこの街に戻って以来初めてこの図書館に足を踏み入れた。書架の間を行ったり来たりして背表紙を眺め、これからはいろいろ図書館で借りても良いかもしれない、と思いながら腕時計で時間を確かめた。約束した午後一時までにまだ十分ほどある。しかしやはり落ち着いて本を物色する気分でも状況でもない、とマーヤは手に取った小説を本棚に戻した。そして「遅く行くより早い方が良いだろう」と意を決したように翻訳小説のコーナーを離れ、一面ガラス張りの壁を切り抜くように造られているガラス扉を押して廊下に出ると約束の場所である講義室に向かった。
 この図書館には「講義室」と呼ばれるスペースがあり、予約制で一般に貸し出されている。個人が少人数を集めて授業やプレゼンテーションをするのに利用されているようだが、マーヤはその講義室の存在自体を今回初めて知った。
 講義室の前に辿り着き、時計を見ると一時五分前だった。早過ぎるということはない。図書室とは違い講義室のドアは木製で中は見えない。マーヤはノックをすべきかどうかを一瞬考え、結局何の前置きもなしにドアを開けてみることにした。
 講義室という名称が付いてはいるもののこぢんまりとした部屋で、ドアに背を向けるように折り畳み椅子が横に六脚並べられ、それが四列綺麗に並んでいる。向かいの壁にはプロジェクター用のスクリーンが垂れていた。そしてマーヤは一番前の列の真ん中に、自分を呼び出した人物を見つけた。偶数の椅子で構成される列の真ん中に腰を下ろす、というのもおかしな話だが、その人物の大きな肩は中央の二脚を占領しているように見えた。室内には他には誰もいなかった。
 アダムはマーヤが入ってきたのに気が付くと「よう」と言って座ったまま振り返った。マーヤは後ろ手にドアを閉め、緊張しながら
「お久しぶりです」
と頭を下げた。マーヤは「この人にひどいことをされたんじゃない。逆にこの人のおかげでドリャンの組織を離れられたのだから感謝すべきなのだ」と思いながらも、心が頭に付いて来なかった。アダムはドアの前で立ち尽くしているマーヤに
「取り敢えず、座れよ」
と困ったような顔をして言った。マーヤはそのアダムの表情を見て「この人もこんな小娘にどう接していいのか分からないのかな」と思い、少し緊張の和らいだ自分を感じながらアダムの座る最前列まで進むと、アダムとの間に椅子を一脚置いて腰を下ろした。
 マーヤは一瞬黙ってアダムの顔を見て、それからアダムの顔から視線を逸らさずコートのポケットに右手を入れて
「まず、これを」
と言って掌に収まるほどの大きさのプラスチック製の円盤状の物を取り出し、アダムのほうへ差し出した。アダムが受け取ってジャケットの内ポケットにしまったのを見届けるとマーヤは
「あとの金属製の鍵は海に落としてしまったんですけど……よく魚がプラスチックごみを飲み込んで窒息死する話も聞きますし、それは捨てられなくて」
と言葉を続けた。アダムは少し呆れた顔をして
「そういう環境のことを考えるのならそもそも海に物を落としちゃいかんだろう」
と返した。
「私、もちろん冗談のつもりだったんですけど、銀行でのことが終わった後マヴリッチさんに『鍵は海の精に預けましょう』って言ったんです。そしたら何だか本当に海の精が守ってくれるような気がして」
「……そうか」
「あの、マヴリッチさんにドリャンの銀行の金庫の鍵を渡したのも、貴方だったのでしょうか」
「その元同僚の男は何も言ってなかったか?」
「教えてくれませんでした。マヴリッチさんは嘘のつけない人なので、『教えられない』とだけ」
「俺はあの男に面は割れているが、鍵を渡したのは俺じゃない」
 マーヤはアダムの言葉を聞いて「この人も教えてくれないんだな」と思ったが、この話題を続けるのも得策ではないような気がして、アダムの顔から視線を逸らすと右肩に掛けている鞄からA4大の封筒を取り出した。そしてそれを両手で持ち直し、アダムのほうへ差し出した。
「おっしゃっていた物は、これです」
「手間をかけたな」
「いえ、お役に立てて、本望です」
 マーヤの返事にアダムは微かに口元に笑みを浮かべ、マーヤの差し出した封筒を受け取った。マーヤはアダムの笑顔を見て嬉しくなり、あまり笑わない人が笑うとすごい効果があるものなのかもしれないと思った。
 アダムはマーヤから受け取った封筒を膝の上に置いてそれを見つめたまま
「こんな物を握っていたのに、あの男は昔の仲間の言いなりになるしかなかったんだな」
とつぶやいた。
「鍵をなくしたことに既に気が付いていて、諦めていたのではないのでしょうか」
「そうだな、鍵がなくては金庫から取り出すことはできないからな」
「あの、イリヤ・ドリャンが殺された、という話は本当なのでしょうか」
 マーヤの質問にアダムは手元の封筒に落としていた視線をマーヤに移した。
「もうこっちの業界からは足を洗ったっていうのに耳敏いな。どうやって情報をかき集めているのか知りたいもんだ」
「それは、秘密です」
 アダムはマーヤの返事に気分を害した様子も見せず、
「残りの金庫の中身は、金目のものばかりだな?」
と話題を変えた。マーヤは質問に答えてもらえなかったのが悔しかったが
「ええ、現金や貴金属といった類の……誰でも同等の価値を見出せるものです。貴方にお渡しした物と違って」
とだけ返した。
「最初に連絡を取った時点でも言ったが、その残りの物は全部あの元同僚と山分けしな。生活の足しにはなるだろう」
「大変、助かります。特にマヴリッチさんの再就職先のお給料はあんまり……」
 マーヤはそう言いかけて口をつぐみ、スラーフコの個人的な事情を外部の人間に話そうとしたことを心の中でスラーフコに謝った。しかしスラーフコの現状など、今目の前に座っている男には既に把握されている気もした。
 アダムはマーヤの顔を観察しながら
「あんた、今もあの元同僚の男に居候させてるのか?」
と尋ねた。
「居候、と言ってしまうと身も蓋もない感じですけれど。今のところ引っ越してもらう理由もないですし、マヴリッチさんは家賃も浮かせられるでしょう?いつか私たちのどちらかが別のところで別の人と暮らしたいと思うまでは、このままでいいのではないかと思っています」
「あんた自身は今の生活に満足か?前の職種のほうが良かったとか戻りたいとかいったことはないのか?」
「どうして、そんなことを聞くのですか?私がドリャンにひどい使われ方をしていたことはご存じでしょう?」
「俺もあんたにあの男のような上司を持つことを勧めたいわけじゃない」
 そう言ってアダムは一瞬黙って、それから再び口を開いた。
「マーヤ、あんたはこのまま野放しにしておくには惜しい人材だ。それに変なところから勧誘が来る心配もある。あんたには俺の顔が割れてるからな、下手な集団のもとに流れられるのも避けたいところだ」
「何が、おっしゃりたいのですか?」
「これは強制じゃない。あんたに選択肢の一つとして提案する。これから俺と別れた後、この建物の正面玄関を出て左に進んで最初の路地に入る角まで行ったら一人の男があんたを待っている。普段はリュブリャーナで活動している男で、痩せてひょろっと上に長い感じの男だ。後の話はそいつに聞いてくれ。俺たちのために働く気がない場合は、正面玄関を出て右に曲がればいい」
「そんな、いきなり勧誘されても困るというか……今、決めなければいけないのですか?二、三日考えてから、そのリュブリャーナの方に連絡を差し上げるということはできないのですか?」
「それはちょいと無理な相談だ。一緒に活動する気がないかもしれない人間に連絡先を渡すわけにはいかないからな」
 無理な相談をしているのは貴方です、と思いながらマーヤは視線を宙に泳がせた。そんなマーヤの顔を見つめたままアダムは更に言葉を続けた。
「俺たちに協力する方を選択した場合は、一つだけ条件を付けさせてほしい」
「何ですか?」
「同居人の優男を巻き込まないこと、あの男にあんたの〝副業〟に関して一切気取らせないことだ」
「……そんなこと、可能でしょうか?同じ家で暮らしているのに?」
「あの男の勘の鈍さとあんたの能力でもってすれば不可能じゃない。あの男にこっちの世界は向いていない。あの歳で表に復帰して再就職できたんだ、良かったじゃないか。安月給でも文句言わずに平和に暮らせばいい」
 マーヤは「スラさんのことをこんな風に話すなんて、一体この人がどれだけスラさんという人を理解しているというのだろう」と少し憤りながらも、相手は何も間違ったことを言っていないと認めざるを得なかった。
 アダムはマーヤの顔を暫く見つめ、それから手元の封筒を右脇に抱え直して立ち上がり
「俺が先に出る。あんたは答えが決まったら外に出な。そうだな、閉館時間までは迷ってていいぞ、あんたを待ってる男はそのくらいの辛抱強さはある」
と言うとマーヤの前を通ってドアのほうへ向かったが、また立ち止まって
「あのどぎつい香水、やめたんだな。偉いぞ」
とニヤリとした。
「だって、あんな風に注意されたらやめざるを得ないじゃないですか」
「ふん、ちょっと俺の言い方も大げさだったかな。俺は鼻が並の人間より敏感なんだ。ああいうのは気分が悪くてしょうがない」
「では、今なら安心して雇っていただけますね」
 マーヤの言葉にアダムは更に愉快そうな笑顔を見せると「またな」と言ってその場を後にした。マーヤは「あの人がこの建物を離れるまでは待った方が良いのかしら」と思いながら暫くぼんやり講義室に一人で座っていた。


 ルツァと話し合うべきことは事前に済ませてあり、アダムはルツァに挨拶をすることなくマリボルを離れると、グラーツの方角へ車を走らせた。明日はグラーツで諸事を済ませることになっているが、アダムは観光客の多い街にあるホテルでの滞在を嫌い、今夜も国境近くのオーストリア側にある協力者の一人が経営するペンションに泊ることにしていた。
 順調に車を走らせ、ペンションの駐車場に車を止めて時間を確かめると午後三時を回ったところだった。アダムが駐車場から玄関までの小径で付いた靴の雪を玄関マットで丹念に拭ってから玄関ドアを押して中に入ると、受付ではペンションの主人がにこやかな顔で待ち構えており
「ようこそいらっしゃいました、ジャントフスキーさん」
と挨拶をした。アダムも鍵を受け取りながら
「おう、また世話になるな」
と言ってそのまま受付の左手の廊下へ足を向けた。主人が
「お食事はどうされます?」
とアダムの背に向かって尋ねると、アダムは歩を緩めることなく
「まだ早いからな、一休みしてから外に出ようかと思う」
と返した。
 主人が「どうぞごゆっくり」と言うのを背で聞きながらアダムは自分の部屋の前まで進んでドアを開け、「電気が付けっぱなしじゃないか」と思いながら中に入り、それから部屋の奥のベッドの側の椅子に座っているレンカの姿を認めた。
 レンカはアダムを目にすると輝くような笑顔を見せ、次の瞬間
「ごめんなさい」
とつぶやいて顔を赤らめ、うつむいた。アダムは慌てて後ろ手にドアを閉め、うつむいているレンカをまじまじと見つめた。
 レンカとは明日の正午にグラーツで落ち合うことになっていた。先ほどマーヤから受け取った物をレンカに確認させ、その後またサシャの部下にレンカを託すという手筈になっている。レンカは明日の朝オラデアからグラーツに向かうと聞いていた。
 レンカは下を向いたまま堰を切ったように話し出した。
「私だって、あなたを困らせたくは全然ないの。自分だけで何でもできるようになりたいし、あなたに頼ってばっかりの自分は終わらせたいし、あなたと、対等な立場になりたいの。ただ、最近移動が続いてたでしょ?ずっと人と会って交渉してまた移動してって繰り返してたら、なんか疲れてきちゃって。途中でサシャともカーロイとも会えたけど、どんなに信頼している人と話しててもそれは所詮演じてる私なの。ヴァレンティンも私の心が弱ってるのを分かってくれたみたいで、オラデアでの仕事は昨日の夜終わったから、どうせなら今日アダムのところに行ってもいいんじゃないかって提案してくれたの。でも、予定を狂わせて押しかけられたらやっぱり迷惑よね。仕事が全部片付いたら私の帰る場所はあなたのところだって分かってるのに、すごい我がままなことしちゃった……ごめんなさい」
 アダムはドアの前に立ったままきょとんとした顔をしてレンカのモノローグを聞いていたが、レンカが話し終わると同時にレンカの傍に大股で歩み寄り、レンカの足元にしゃがみ込んでレンカの顔を下から覗き込んだ。
「レニ、なんでお前は俺に迷惑をかけているという前提で話すんだ?お前に会えれば俺が喜ぶだろう、という発想はないのか?」
「……アダムは、一日早く私に会えて嬉しいの?」
「当り前だ。俺はてっきりお前が俺を喜ばせようと思ってここに現れたんだと思った。そしたらなんだ、いきなり独りよがりな反省会なんか始められるもんだからこっちもビビるだろうが」
 レンカは驚いた顔をして口を半開きにしたままアダムを見つめ、それからゆっくり顔をほころばせた。
「私、あなたに叱られてもいいからあなたに会いたいって、そんなことばっかり考えてここまで来たのに」
「惚れた女が会いに来て怒る奴があるか」
「そういう台詞を面と向かって言われるとこっちが恥ずかしくなっちゃうわ。でも仕事中に勝手なことしたらやっぱり怒るでしょ?」
「仕事中かもしれんが、今はお互い時間が出来たんだ。誰にも迷惑はかけていない。あとな、対等な立場になるっていうのは相手に頼っちゃいかんという意味じゃないんだ。お前が完全に俺無しでも平気で生きていけるようになったら俺にとっては死活問題だ」
 アダムの言葉にレンカは思わず笑い声を漏らすとアダムの首に両腕を回して抱きしめた。それからアダムが
「お前とここで会えたならお前をグラーツに送り届けるのは明日の昼過ぎでいいな」
と言うと、レンカは
「じゃ、それまではずっと一緒にいられるのね」
と返して更に大きな笑みを浮かべた。


その名はカフカ Inverze 24 へ続く


『Dotek slané vody』 17 x 24 cm 水彩
Hahnemühhle Expression 300gm2 (cold pressed)を使用。BambooやHarmonyのように「抜き」は効かない。置いた色はそのまま残る。しかし今まで味わったことのない描き心地で、これはこれで魅力的な紙。



【補足】
アダムとマーヤに何か接点ってあったっけ?と思ってしまった方はこちらで復習を↓

【地図】