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聖夜を彩るは美しき矛盾

 今年のクリスマスは帰れない。電話でそう伝えたら、父は「そうか」とだけ答えて、それ以上何も言わなかった。普段は何を言っても冗談で返してくる父のその反応に、不思議と何の違和感もなかった。卒論を書くのが大変だからだとか、プラハに残ってやりたいバイトがあるからだとか理由を付けようかと思ったが、何となく、父はレンカに何かが起こったことを感じ取っているような気がした。何か、大きな異変だけれど、父には言えないような、何か。
 レンカの勘の良さは父親譲りだ。レンカは母親のことは何も覚えていないが、自分と同じくらい勘の働く人だったらあんな無責任なことはしなかったのではないかと思う。もしくは勘が働くから、その後の人生を憂いて逃げ出してしまったのか。「母親」という言葉を思い浮かべても何の感情も湧かないが、無神経な人だったんだろうなという漠然とした印象だけがある。いつの頃からか、母のことは何も覚えていないのに、姉の何も考えていないような、ポジティブを絵に描いたような笑顔を見るたびに、この人は母親に似たんだろうと思うようになった。
 この日は昼頃から起きているのが辛くなって、まだ日は高いというのにレンカはベッドに横になってベッドの隣の窓から空を見上げている。日は高いとは言ってもそれは単に時間帯を表しているだけの話で、空はどんより曇って太陽の存在は感じられない。また雪になるのかな、と思いながらレンカは寝返りを打った。それと同時に心臓が、まるで「ここまでしないと血を送り出せないんだ」と言わんばかりに胸の内側全体を叩くような鼓動で自らの存在を主張し過労を訴え、暫くしてまた静かになった。
 クリスマスも帰省せずにプラハに残ることにしたんだ、と言ったらアダムは「変に心配させるよりはいいかもな」とだけ返した。アダムの前で倒れて、そしてアダムに頼り始めてからもう五ヶ月が経とうとしている。だんだんと食事の量は増えてきたものの、寒くなってきた途端、レンカは休みなくひどい風邪を引くようになった。免疫力が落ちているということなのだろう、風邪を引く度に高熱を出し、高熱が出ると再び食物を口にするのが辛くなった。
 こんなことを繰り返していて、本当にアダムやカーロイのために働ける人間になれるのかな、と思う。しかしアダムは、少なくともレンカの前ではレンカが元気になって彼の手足となって活躍するのだと何の疑いもなく信じているかのような態度を取る。こんなに心配ばかりかけているのにおかしなものだ。
 最後に派手に手を焼かせたのはまだ半月前で、レンカがシャワーを浴びている最中に足を滑らせて頭でも打ったらと思うと怖いから部屋に残って終わるまで待っていてくれと頼んだ時のことだ。髪を洗おうと頭に湯をかけ髪の間に手を入れたところ、信じられない量の髪が抜けて掌にべっとり付いたのを目にした瞬間、レンカは短い叫び声を上げた。それと同時にアダムがシャワー室に飛び込んできたところまでは覚えているが、気が付いたらバスタオルに包まれてベッドに寝かされていた。ベッドの側に座るアダムと目が合うと、アダムは神妙な顔つきで「心配するな、若いんだからちゃんと食えばまた生えてくる」と慎重に言葉を発した。レンカはアダムの声をぼうっと聞きながら「アダムに裸を見られちゃったな。でも今の私なんて生物室の全身骨格の見本に皮を貼り付けたようなものだから、裸だからどうしたとかそういったこと以前の衝撃だっただろうな」などと考えた。それから、食べられなくなって最初の数週間の体を見られるよりはマシだったのかもしれないとも思った。
 レンカの体が食べることを拒否し始めてから間もなく、胴体全体に赤い発疹が現れた。足にも腕にも出ないのに、胴体だけ。まるで内臓を護るかのように。自分でも鏡に映るその皮膚を直視したくないほどの気味の悪いまだら模様だったが、それは体から発せられるSOSだったのだろうと思う。しかし体が食することを拒否したというのに、その体から助けを求められるというのも随分と矛盾している。では「体が食べることを嫌がる」と思っているのは自分の意識の表面の部分だけで、実のところ体ではなく自分では認識することのできない意識の深い部分の決定だったのだろうか。しかしそんなことを深く考える間もなく三週間ほどして発疹は消え、体は栄養が届けられないことを受け入れたようだった。ただただ弱っていくことに、抵抗しなくなった。
 今日のレンカは起き上がっているのが辛いだけで、眠いわけではない。ベッドに寝転がったまま目を開けてじっとしていると、視線の先にある玄関が開錠される音がして、アダムが一メートルくらいの高さのネットに包まれたクリスマスツリー用の生木を抱えて入ってきた。アダムは玄関を閉めるとその脇に木を立てかけ、靴を脱いで玄関ドアの側に置いてあった室内履きに履き替え、「よう」と言いながらレンカが寝ているベッドの側まで来て椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
 レンカは上体を起こすとアダムが持ち込んだ背の低い木に目をやって
「本当に、買ってきたんだ」
と言った。木の側の壁で先週アダムが買ってきてくれた来年のカレンダーが味気ないフォントで印刷された『2002』という年号をさりげなく強調するように揺れている。きっとアダムの肩が当たったのだろう。
「一緒に祝おう、と言いだしたのはお前だったな?クリスマスを祝うとなったらまずツリーの手配を思案するのが一般人の発想だろう」
「また余計なお金使わせちゃった」
「カーロイはお前のバイト代をケチっていたからそれを今俺が補填しているんだということにしておけばいい」
 そう言うとアダムは不自然に膨らんだジャケットの内側から三十センチメートル四方ほどの大きさで厚さが十センチメートル弱の紙の箱を取り出し、
「これでいいか」
とレンカのほうへ差し出した。それはクリスマスツリー用のデコレーションのセットで、均一の大きさの赤や緑の球に白色で様々なクリスマスのモチーフが描き込まれているものだった。レンカはまず「ジャケットに入れて運ぶんじゃなくて袋に入れて手に提げて来ればいいのに変な人」と思い、それから両手で受け取って箱の透明なセロファンの張られた蓋の下を覗き込むと
「これも結構したんじゃない?ちゃんと値段見て買った?」
と聞き、なんで自分は素直にありがとうって言えないんだろう、とすぐに後悔した。アダムはレンカの反応を気にする様子も見せず
「俺たちが一緒に祝うのは今年だけだからな、もったいないと思うなら来年実家に持って行ってもう一回使え」
と返した。アダムの言葉に、レンカは顔を上げてアダムのほうを見た。
「いいか、お前はこのクリスマス休暇の間に俺の介抱の甲斐あって完全に体力を回復する。それから学士の卒論を書き上げ六月には卒業試験に合格し、そのまま修士課程の入試もすんなりパスだ。夏休みにはその報告も兼ねて親父さんに元気な顔を見せに行ってだな、次のクリスマスは必ず帰省すると約束するんだ。これが今からお前が辿るシナリオだ」
「……もしその通りになったとして、学校に行きながら仕事もさせてもらえる?」
「お前の体力と能力次第だな。そうしたいと思うなら努力しろ。……だが、焦るな、無理はするな」
 そう言うと、アダムは改めて部屋の中を見回した。
「しかし狭い部屋だよな、ツリーを広げたらそれだけでいっぱいになるな」
「しょうがないでしょ、大学生の一人暮らしなんだから」
「もっと安全で大きいところに引っ越すべきだな」
「無駄なことはしないで。私なんて命が狙われるような人間でもなければ強盗に入られるような財産もないんだから」
 レンカはそう言いながらデコレーションが収められた箱の蓋を外すと、中から一つ、クリスマスツリーの模様が描き込まれた赤い球を取り出して目の前にかざしてみた。ガラス製で、絵は全て手描きのようだった。
「変なの。ツリーに飾られるっていうのにツリーの絵を描くって矛盾してると思わない?作ってる人たち、そこまで考えないのかな?」
「気に入らなかったか?」
 アダムの口調が少し寂し気に聞こえて、レンカは視線をツリーの模様からアダムの顔に移すと
「綺麗だよ。すごく好き」
と返した。それから
「そもそもクリスマスの伝統なんて、矛盾だらけなんだから」
と続けて小さく微笑んで見せた。笑ったように見えたか心配だったが、アダムは安心したように「そうだな」と言った。


 レンカは覚醒してからも暫く目を瞑っていたが「きっともう六時は過ぎているだろうな」と思いながらゆっくり目を開けた。一年で一番日が短いこの時期、起床する時間帯はいつも暗い。レンカは普段は早起きで、六時まで横になっていることはまずないが、なぜか昔から十二月二十五日の朝だけはのんびりしてしまう。前夜の慣れない祝い事が疲れさせるのだろうか。そんなことを思いながら部屋の暗さに目が慣れてきたところでレンカは寝返りを打ってアダムのほうを向いた。
 アダムがレンカより遅く起きることはあまりなく、アダムが起き出す気配でレンカが目を覚ますことも多い。きっとアダムは今も覚醒しているのだろうが、今日くらいはレンカをゆっくり寝かせておこうと思ったのか、目を瞑ったままレンカのほうを向いて横になっている。レンカはアダムの顔を見ながら
「ねえ、十三年前に私のアパートで一緒にクリスマスをお祝いした時のこと、覚えてる?」
と尋ねた。アダムは目を閉じたまま
「忘れるわけがないだろ。あんな奇妙なクリスマスは後にも先にもあの時だけだ」
と答え、それからうっすらと目を開いた。
「どんな風に奇妙だったって思うの?」
「俺もお前もそれまでクリスマスの祝いというものを自発的に用意したことがなかっただろ。そんな二人が見よう見まねで作り上げたんだから、世間一般で言うクリスマスというものに比べたら奇妙としか言いようがない出来だった」
「いいじゃない、誰も見てなかったんだから」
「まあ、そうだな」
「あの時アダム、一緒に祝うのはこの年だけって言ったの、覚えてる?」
「言ったか?」
「言ったわよ。でも、今年はまた一緒にお祝いできたね」
 レンカは嬉しそうにそう言うと、ゆっくりと起き上がった。アダムがレンカの動きを目で追いながら
「もう起きるのか?」
と聞くとレンカは
「父さんにコーヒー淹れてあげるの。二十五日の朝は、いつもそうしてるの」
と答えた。アダムはまだ半開きだった目を見開いた。
「お前が、コーヒーを淹れるのか」
「そこまで驚くことないでしょ。自分じゃ飲まないけど、いつだったかな、まだ私が小さい頃クリスマスの朝に父さんが起きる前に淹れといてあげたらすごく喜んじゃって、それ以来の習慣なの」
「俺の分も、淹れる気あるか」
「やだわ。絶対不味いって言うから」
「言わん。どうせ人の家じゃ勝手なことはできんから自分じゃ淹れられんだろ。出されたものに文句は付けない」
 レンカは「どうだか」とでも言うように肩をすくめて見せ、ベッドを降りた。それから
「今日中にペーテルに電話をするのを忘れないようにしなきゃ。あの子、誕生日当日におめでとうって言わないと拗ねるのよ」
と半ば自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「生まれる日付けさえも普通じゃおられんのだな、あの小僧は」
「可哀そうなものよ、二つのお祝い事が重なっちゃうんだから。プレゼントもまとめられちゃうの」
 レンカは横になったままのアダムに「適当に起きてきてね」と言うと寝室を出て浴室へ向かった。
 十三年前のクリスマスを除いて、レンカはいつもこの家でクリスマスを過ごしてきた。幼い頃は父と姉が用意する「典型的な一般家庭のクリスマス」が繰り返され、姉が結婚してチェコを離れてもカーロイが仕事で不在だからと幼いペーテルを連れてクリスマスの時期に帰国することも多かったが、ペーテルの弟が生まれた頃から姉はクリスマスもブダペストに留まるようになった。それが自分が倒れる一年前だから十三年前だけは父さんはクリスマスを一人で過ごしたんだな、と思うとレンカはいつも申し訳ない気持ちになる。
 レンカは浴室に入ると洗面台の上の大きな鏡に映った自分の顔に向かって「でもあの時の自分を父さんに見せるわけにはいかなかったもの。しょうがないのよ」とつぶやいた。それから先ほどアダムが十三年前のクリスマスを「奇妙としか言いようがない」と表現したのを思い出し、自然と笑みがこぼれた。
 レンカは鏡に映った自分の笑顔を見つめて「確かに笑っていれば私もそう捨てたもんじゃないかもしれない」と思い、更に大きく微笑んだ。我ながら幸せそうな笑顔だと思う。自分は今、十三年前には想像すらできなかった幸せを手に入れた。それはあの時の苦しみがあったからこそ実現した幸せだとも言えるし、実はあんな風に苦しまなくても、十年以上も心を閉ざさなくても手に入った幸せなのかもしれない。人間には、起きたことしか分からない。人生で起きた出来事の全てが必然のようにも見えるし、何の論理的な関連性もない矛盾だらけのようにも見える。
「だから、あの時の奇妙なクリスマスがあったから今のあなたと私が存在しているし、あの時ツリーの模様のツリー飾りを買ってくれたから、私は今からあなたにコーヒーを淹れるの。きっとそれが、矛盾した因果関係の必然的な姿なの」
 レンカはそう声に出して言って、もう一度ひとしきり笑った。


『Veselé Vánoce, má milá!』 21 x 28 cm 水彩


【あとがき】
本記事は長編小説『その名はカフカ』の番外編です。
そしてこれは橘鶫さんと「noteのTLに二人でニシコクマルガラスの扉絵を横並びにする」という二人だけの(何たる贅沢!)クリスマス企画であります。

私が後なら向かい合えた、のかな……?

お互いへのクリスマスプレゼント、と言いたいところですが、モチーフであるニシコクマルガラスは私の恋焦がれる存在ですから、鶫さんから私へのプレゼントだと勝手に思っております。
鶫さん、素敵すぎるご企画にお声をかけてくださり、本当にありがとうございました。

本編を追ってくださっている方には明白だと思いますが、この番外編は2001年にレンカが記憶を失い摂食障害に陥った数ヶ月後のお話です。ここまでは第一部Preludiumだけをお読みになった方にも問題なくご理解いただける内容だと思いますが、最後は2014年のクリスマスに飛んでおり、ここが楽しめるのは第四部Modulaceまで読了された方かなあ、と思います。
補足しておきますと、チェコではクリスマスのメインのお祝いは24日の夜なので、25日の朝は祭りの後の雰囲気です。
尚、2001年当時レンカの体に起こった様々な症状は調べたわけでも想像して書いたわけでもなく、筆者自身の体験を掘り起こして描写しています。少々デリケートな部分ではありますので、その辺りに関してはコメント等でも触れないでいてやっていただければ幸いです。


ではでは皆様、楽しいクリスマスを過ごされますように。


2023年1月に撮影したプラハ旧市街広場のツリー。
夜この辺りを歩くことは稀なので撮影の機会があってよかった。