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その名はカフカ Inverze 12

その名はカフカ Inverze 11


2015年1月ワルシャワ

 国立オペラ劇場の裏を抜けサスキ公園に入ると、カズィは待ち合わせ場所に指定された噴水を目指した。サスキ公園はカズィの勤める防衛大学からは公共交通機関を乗り継いで三十分以上かかるワルシャワの中心部にあり、この後も仕事に戻らなくてはならない身としては正直好ましい会合場所とは言えなかったが、相手がこの街に慣れていないとなると分かりやすい観光名所を指定されても仕方がない気もした。
 冬は観光客も少なく、この日は雨や雪は降っていないものの曇っていて、公園の中には下を向いて足早に目的地へ急ぐ地元の人間と思しき人々しか見当たらない。一週間ほど前まで続いていた寒波による氷点下十度前後の寒さは和らいでいたが、葉のない木々は今も白く凍りついている。そんな暖かいという言葉には程遠い空気の中でも、カズィはさして急ぐ様子も見せずに歩いた。走る必要のあるときは、誰よりも早く走れる。だからその必要のない時は常に余裕を持って行動したい。
 色とりどりの花が咲き誇る季節も綺麗だけど、これはこれで魅力のある風景だなと辺りを見回しながら歩いていると、ほとんどモノクロ写真のように見える公園の奥の方に噴水が見えてきた。水は止められている。そしてその噴水の向こうに、大柄な人影を一つ見つけた。カズィがその人影が待ち合わせをした相手であると気が付いた瞬間、まだ二人の間には二十メートルは距離があるというのに、その人物は当然のことのように身を翻し、カズィに背を向けて歩き出した。カズィはその人物と距離を縮めすぎないようにしながら後に従った。
 暫く同じような調子で歩き続け、数ある公園の出入口のうちの一つに近づいた頃、追っていた人物が立ち止まってカズィのほうを振り返ったので、カズィは心持ち歩調を速めた。カズィが傍まで来るとその大柄な人物はにたりと笑い、
「よう嬢ちゃん、久しぶりだな」
と言った。カズィも笑顔で
「お久しぶりです、山男さん」
と挨拶をした。ティーナの仕事で何度か顔を合わせたことがあるのこの男はカズィが名前を尋ねても「名前なんて所詮記号みたいなもんだ、嬢ちゃんの好きなように呼べよ」と言うだけなので、勝手に「山男」と呼んでいる。山男のほうもカズィにそう呼ばれるのが嬉しそうだ。
 山男は笑ったまま
「嬢ちゃん、手ぇ出せ。ティーナの欲しいもんはここだ」
と言って右手を差し出した。カズィは手袋を外すと山男と握手をするように差し出された右手を取った。そして
「山男さんからの預かり物なんて、少なくとも厚さ三センチくらいの封書になるかと思っていましたが」
と笑いながら言うと男の手を離し、受け取ったSDカードを落とさないように親指で掌に押さえつけたまま再び右手に手袋をはめた。
「嬢ちゃん、大人を馬鹿にしちゃいけない」
「失礼しました。お急ぎですか?」
「嬢ちゃんとデートしたいのは山々なんだが、こんなところに長居するわけにはいかねえしな。嬢ちゃんも今から仕事に戻るんだろ。ティーナには『それさっさと処理したほうがいいぞ』って言っといてくれ」
「分かりました。お気を付けて」
「山ん中で走りたくなったらいつでも連絡寄こせ」
 山男はそう言うとまるで覆いかぶさるようにカズィの細い体を抱擁した。カズィは「ティーナの昔からの協力者の人は楽しい人が多くていいな」と思いながら山男の背に手を回した。


 ティーナが学科主任を研究室から送り出した数秒後に、カズィがノックをして入って来た。カズィは「ただいま戻りました」と言いながらコートをドアの側のコート掛けに掛け、
「先生はまたティーナを説得しにいらっしゃっていたのですか?」
と尋ねた。ティーナはカズィにお茶を淹れてやろうと部屋の隅の背の低い棚の上に置いてある電気湯沸かし器のスイッチを入れ、カズィのほうを振り返ると
「もう学校に留まれって言うのは諦めたみたいだけど。いろいろ他の勧誘をしてきたわ。どうしても私を何らかの形で軍隊に関わらせておきたいみたい」
と答えた。
「ティーナは学生にも上官の方々にも人気ですからね。そんな魅力的な人材を簡単に手放したくない気持ちはよく分かります」
「足を引っ張りたいのは同程度のランクにのさばってる奴らだけっていうのが笑うに笑えないわね」
「軍や校内では同じくらいの地位かもしれませんが、人間性はティーナとは比較する気にもならないほど低レベルな方たちですのに」
 カズィはそう言うと稼働を停止した電気湯沸かし器に近づいて湯沸かし器の下の棚から紅茶のティーバッグを二つ取り出し、ティーナと自分のカップに入れて湯を注いだ。それから「失礼します」と断ってセーターの首元から内側に右手を入れ、ブラウスの胸ポケットからSDカードを取り出してティーナに手渡した。それから
「私が、見たほうがいいでしょうか?」
と問いかけたが、ティーナは一瞬考えるような顔をして
「ありがとう。こっちで一回確認してから、あなたに任せた方が効率が良さそうだったらお願いするわ」
と答えた。
 カズィはティーナの表と裏の活動のどちらにおいても助手を務めている。そんな人間はカズィの他にはティーナの周りに存在しない。だからと言って、カズィは「一番近しい信頼のおける部下」としてティーナに認識されているとは当然思っていなかった。先ほど山男から預かってきたデータも私に見せても大丈夫なものなのか確認してから任せるかどうかを判断したいのだろう、ティーナの古株の部下はもっと優秀で能力の高い人が多いからティーナが大学の仕事を辞めたら私は必要とされなくなるんじゃないかと心配だな、などと心の中でつぶやきながらティーカップから茶葉を取り出し、二杯のうちの一杯をティーナに差し出した。
 ティーナは紅茶を受け取ると
「結局あなたに淹れさせちゃったわね。ありがとう」
と言って微笑み、自身のデスクの椅子に腰を下ろした。
 カズィもティーカップを手に普段作業をしている机の側の椅子に座り、
「山男さんからいくつか伝言があります」
と話し始めた。ティーナは紅茶を啜りながらカズィの次の言葉を待った。
「まず、『それさっさと処理したほうがいいぞ』とのことです」
「言われなくても私だって今すぐ片付けたいわ」
「それから、『標的はやっぱりあの日交渉に行ってた姉ちゃんだ、奴らが姉ちゃんをあんなとこまで付け回すっていうのもおかしな話だが』とおっしゃっていました」
「あなたがあの男の台詞を一語一句違わず再生すると笑えないコメディを見せられてる気分になってくるわね。……て言うか、あいつ、そんな公共の場でそんな話したの?もうちょっと気を引き締めてほしいものだわ」
「お別れのハグをしながら耳にささやいてくださったので、外には聞こえていなかったかと思います」
 カズィがそう言うと、ティーナはティーカップをデスクの上に置き、呆れたように
「あの男、久しぶりに山を下りたからテンション上がっちゃったのかな。そんな挨拶するような柄じゃないのにね、あなたを見たらかっこつけたくなっちゃったってとこかしら」
と言って腕を組んだ。
「きっと秘密の伝言を伝える最良の手段だと思われたのでしょう」
「そんなの、電話で済むわ。私の周りのおじさんたちがあなたに変な気を起こさないか心配になってくるわね」
「それはありません。皆さん、ティーナに夢中ですから」
「そういう問題でもないと思うけど。あなたも若いっていうだけで色めき立っちゃうおじさんおばさんが世の中多いんだってしっかり認識しておくべきよ。もちろん、あなたの魅力は若さだけじゃないけど」
「ありがとうございます。他者の評価は大して気になりませんが、今の私の唯一の心配は、ティーナがここのお仕事を辞められた後も私がティーナにとって魅力的でいられるかということですね」
 ティーナはカズィの言葉に目を見開いて
「どういう意味?」
と尋ねた。
「私が大学内でティーナの助手のポジションを得られたのはこの大学の卒業生で、学位もそれに見合ったものを修得していたからです。学校の外に出れば、ティーナにとって私程度の軍事知識を持ってある程度のデータの処理ができて足の速い人間など大して価値はなく、ティーナの使っている方々の中にはもっと能力の高い人は山ほどいらっしゃるのでしょう」
「私、あなたほど足の速い人、他に知らないわよ?」
「それでも敵を逃したことがあります」
「誰にだって失敗はあるわ。深追いをして怪我でもされるよりよっぽどマシよ」
 そう言ってから、ティーナはカズィの目を真っすぐ見つめると、
「それに私、あなたより頭のいい人間って今ぱっと思い浮かぶだけだと、そうね、片手で数えられるくらいしか知らないわ。学校の仕事を辞めた程度で私があなたを手放すなんてもったいないこと、するわけないでしょ。私ね、無駄に卑下する人間とか自分のことを極端に過小評価する人、嫌いなの。あなたもさっさと自分のすごさを自覚してくれないと、別の意味で追い出しちゃうわよ?」
と続けた。
 カズィはティーナの言葉を聞いて微笑み、
「では今この瞬間から『自分はすごい』と思いながら過ごすしてみることにします。何だか違和感が否めませんが、これもティーナに捨てられないための手段だと思えば身に付きそうです。そして、その片手で数えられるもっとすごい方たちの上を目指します」
と返した。カズィの返事を聞いてティーナは
「あなたって、本当に負けず嫌いなのねえ。カズィのそういうところ、好きだけど」
と苦笑した。それから、「でもカズィが今掲げた目標は達成できる日が来る気は今のところあまりしないわねえ」と思いながら自分の頭の中に浮かんでいる「片手で数えられる数名」のことを考えて、更に笑った。


その名はカフカ Inverze 13 へ続く


『Vzpomínky z Warszawy』 20,5 x 27 cm 水彩
八月初旬に描いた絵。ニシコクマルガラスと一緒に描かれる人物はいつもレンカだけど、ズキンガラスとのコンビはきっと別の人。描いた時は頭になかったけど、カズィなのかも。



【補足】
カズィって誰だったっけ?と思われた方はこちらで復習を。

初登場↓

名前が出たのはここが初↓


【地図】