その名はカフカ Inverze 21
2015年1月オラデア
一月も下旬に入って寒さが和らいできたが、午前中まで滞在していたブダペストよりオラデアのほうが更に暖かい気がする。それでも冬の外気は刺すように冷たく、長い散歩には向かない。そんなことを思った矢先に雨が降り出して、レンカは頭に被ったコートのフードの端を片手で押さえると足早に車を目指した。
この日レンカはハンガリーとの国境近くのルーマニアの小都市オラデアへ向かうべく、まずブダペストから乗り換えの電車が出ているハンガリー東部の駅まで特急列車に乗った。しかしその乗り換えの駅で下車したところで、昨年十一月にパッサウで世話を焼いてくれたヴァレンティンの部下が待っていて「ここからは車です」と楽し気に言った。せっかくオラデアまでの乗車券を買ったのに、とレンカが言うと「これも一種のカモフラージュです。ここまでの列車の旅がより高価なものになったと思えばよろしい」と返された。山高帽を被ったその部下は単にレンカを車まで誘導するためだけに待機していたらしく、駅の外に止めてある車の中の一台を指し示すと「私はこれで」と言って姿を消した。レンカが車に乗り込むと、運転席に座っていたのはヴァレンティンだった。
数日前にスルデャンと共にウィーンに戻った時、サシャは「一時間ほど前までヴァレンティンと会っていた」と笑っていた。その後レンカはブダペストへ移り、ブダペストからオラデアへの道中ヴァレンティンに拾われた。この状況から察するに、ヴァレンティンもレンカと同じようなルートで移動したと考えるのが妥当なのではないか。そう思いながらレンカが「私と長時間一緒に過ごすのがよっぽど嫌なのね」と言うと、ヴァレンティンは「僕とまた喧嘩がしたいのかい?」と返した。レンカは「本気で怒ってくれない人とは喧嘩にもならないわ」と思ったが口にはしなかった。
オラデアの街に入るとヴァレンティンは「僕は君を仕事に連れて行く前に会わなければならない人がいる。悪いが散歩でもして時間を潰していてくれないか」と言ってあまり人気のない車道の路肩に駐車した。ヴァレンティンが「この街での君の安全は保障されている」と言い添えるとレンカは「それは心配してないけど、どのくらい時間を潰していればいいのかしら」と尋ねた。ヴァレンティンは「君は勘がいいことで知られている。戻るべきタイミングも直観が教えてくれるだろう」と楽し気に答えた。
こんな天候では直観も何もあったものではない、雨が降り出したのだから少々早く車に戻っても許してもらえるだろう。そんなことを心の中でつぶやきながらヴァレンティンの車が見えるところまで来て、レンカは足を止めた。ちょうどヴァレンティンの車から人影が一つ、離れていくのが見えた。遠目にもそれが九月にブカレストの滞在先の邸宅でレンカを出迎えてくれた女性だということが分かった。
ブカレストで泊めてもらった家に関しては事前にヴァレンティンに「ここで見たもの、会った人間に関しては一切口外しないこと」と言い渡されていたが、結局レンカには何が秘密なのか、なぜアダムにさえもそこで会った人々に関して何も言ってはいけないのかは分からずじまいだった。どうあれヴァレンティンに「外には漏らすな」と言われたのだからわざわざ話題にすることもないだろうと、レンカはアダムにも他のカフカの三人にもブカレストでの滞在先については何も言わなかった。
レンカが後部座席に乗り込みドアを閉めると、ヴァレンティンは
「さすがだ。君の勘に頼っていれば全てが上手く運びそうだ」
とフロントガラスのほうを向いたまま言った。
「嫌味な言い方ね。雨が降り出したことに気が付かなかったとは言わせないわよ」
「一体今僕が言ったことのどこに嫌味が含まれていたと言うんだい?思ったままを言ったまでのことだ」
「……誰に会ってたのか、見られたくなかったんでしょ」
「なぜそう思うんだい?君はあの人を知っている。残っていてもらっても構わなかったんだが、僕たちが君の理解できない言語で話しているのを眺めているのはつまらないだろうと思ったまでの話だ」
それならあの人が来た後私に挨拶をさせてから外に送り出すとかしても良かったのに、あえてそれをしないということはやっぱり誰と会っていたのかは知られたくなかったんでしょう。そう言いたかったが、レンカはそんな意地悪な言い方をする必要もないかと思い直し、口をつぐんだ。ヴァレンティンを怒らせるのは嫌だった。
ヴァレンティンはたとえ怒ったとしてもあからさまに怒りの感情を外に出すようなことはしないが、レンカは彼が自分に対して苛ついているのを感じ取ってしまう時には、いつも怖気づいてしまう。このまま同じ話題を続ければヴァレンティンがいい顔をしないのは目に見えていたし、そんなことで自分が居心地の悪い思いをするのも嫌だった。
レンカが何も言わないのが気になったのか、ヴァレンティンは小さくため息をつくと体ごと自分の斜め後ろに座るレンカのほうを向き、レンカの顔を見つめた。
「君が除け者にされたとか僕の我がままで外に放り出されたとか感じているのなら謝るよ。せっかくの機会だから少し知らない街を散策してみたら君にとっても面白いんじゃないかと思ったんだ。戻ってくるのが早すぎたなんて余計な心配をする必要はない」
「私、そんなに拗ねてるように見えるかしら。変な気の使い方をしてくれなくていいわ」
「ほら、その答え方が既に拗ねている証拠だ。それで、散歩はどうだった?」
「……本当に少し歩いただけだけど、いいところだと思うわ」
レンカの返事を聞いて、ヴァレンティンは嬉しそうに微笑むと
「ここは温泉も有名なんだ。今回はそんな風に遊んでいる暇はないけど」
と言って再び体を前方へ向けた。レンカは「温泉」と聞いて暗にペーテルを非難しているのだろうかと訝しんだが、ヴァレンティンは
「さあ、仕事だ」
とだけ言葉を続けて、エンジンをかけた。レンカは少し迷って、運転席の真後ろに座ってしまっては話しにくいだろうと思い、助手席の後ろに座ったままでいることにした。そして、車に戻ってきた時点で助手席に座らなかったことを少し後悔した。
オラデアの中心街に近いところに駐車していたものの、最終的な目的地は郊外にあるのか、車の外の風景はだんだんと街を離れ、人家も目につかなくなった。雨が降っている上に日も落ちてきて外は薄暗い。ヴァレンティンは何も言わずに車を走らせ、レンカもヴァレンティンに話しかけなかった。
車道に沿って植えられている木々や雪の残った畑に囲まれた道を二十分ほど走り、小さな集落を抜けた。そしてまた五分ほど森の中の車道を走るとヴァレンティンはやっと口を開き、
「サシャはこんなところにこんなお屋敷を隠していたんだ。彼は未だにいろいろと驚かせてくれる」
と楽しそうに言って、大きな邸宅の前で車を止めた。大きいとは言っても、庭の奥に佇んでいる「家」と言うより「館」と言ったほうが適切な趣のその建物は、広々とした敷地の中で寂し気な印象を与えた。ヴァレンティンが車を止めたのとほぼ同時にスライド式のガレージの門扉が自動的に開き始めた。その向こうに見えるガレージの鎧戸も既に上がっている。門扉が車が通れるほどの幅に開くと、ヴァレンティンはゆっくりと敷地の中へ車を入れ、ガレージの中で止まった。レンカが車の外に目をやると、山高帽の男がにこにこしながら立っていた。
レンカはヴァレンティンのほうに視線を動かすと呆れたような口調で
「ねえ、あなたたちが入れ代わり立ち代わり現れたり消えたりする意味って、一体何?」
と尋ねた。ヴァレンティンはレンカのほうを振り返ると
「彼が乗り換えの駅で君を待っていたのは僕が外に出るわけにはいかなかったからだ。そして彼は君を僕のところまで連れてきた後、別の仕事をしていた。僕はオラデアの街で用事があった。全てに理由がある」
と淡々と答えた。
「用事って、私を濡れネズミにすること?」
「ほら、やっぱり拗ねている。ちなみに君は車に戻った時、そんなに濡れていなかった」
そう言われて、レンカは何を答えていいのか分からなくなった。確かに今の自分の態度はまるで自分が外に放り出されている間にヴァレンティンが別の人と会っていたことが気に食わないと言っているように見える。
ヴァレンティンはレンカの目を観察するように覗き込むと、話を続けた。
「今から彼が君を面会相手のところへ連れて行く。僕は隣の部屋で君たちの話を聞いている。今のところ僕は顔を見せるべきではない人物だと思うからね。悪いが面会中は右腕君との通信は切っておいてくれ」
「どうせ繋げないわ。パヴォルおじさんのところの作業が終わるまではエミルの邪魔はしないって決めたから」
ヴァレンティンはレンカの返事を聞いて軽く微笑み、
「さあ、行っておいで。今回はどれだけ話し込んでもらっても構わない。時間はたっぷりある」
と言って目で外へ出るよう促した。
レンカが車を降りると山高帽の男は「さ、こちらです」と言ってガレージから館の玄関先まで続く小径を先に立って歩き出した。雨はやんでいる。レンカは少しぬかるんだ地面に注意しながらヴァレンティンの部下の後ろを進んだ。二人が玄関の大きな扉の前に着くと扉は内側からひとりでに開いた。山高帽の男は扉を開けた人間にロシア語で挨拶をするとレンカを先に中へ通した。
〝客人〟はサシャが囲っているという話だったし先ほどもヴァレンティンはこの館の所有者はサシャだというニュアンスで話していた。だから中で働いているのも全員サシャの部下なのだろうと思いながら、レンカは扉を開けた人物に小さく頭を下げた。玄関ホールの壁には大きな鏡があり、レンカはそこに映る自分の姿を眺め、「何だか疲れた顔をしているな、こんな状態で初めて会う人間を説得するなんてことができるのだろうか」とぼんやり考えた。それからコートを脱ごうとすると山高帽の男が後ろに回って手伝ってくれた。レンカが思わず「すみません」と言うと男は
「貴女は私の上司も同然なのですからもっと偉そうになさってください」
と可笑しそうに笑った。男はコート掛けにレンカのコートを掛け、自身の山高帽と上着も掛けると振り返って、更に
「お疲れのようですね」
と続けた。
「あの、できれば面会の前に身繕いの時間などいただけますか。少し長めの移動をした後ですし、なるべく失礼のないようにしたいのですが」
「もちろんです。きっかり時間が決められているわけでもないですし、相手はここから動けない身ですからね。レンカさんの準備が整ってからでいいのです。こちらへどうぞ」
そう言うと男は玄関ホールの奥へ進み、右へ曲がった。レンカは男に初めて名前で呼ばれたことが思いのほか嬉しかった。レンカは男の後に続きながら
「貴方の、お名前を伺っても?」
と尋ねた。男は前を向いたまま
「興味がおありですか?」
と返した。
「十一月にも大変お世話になりましたし、これからもお仕事でお会いする機会も多くなるのではないかと思いますので」
「まずその無駄に丁寧な話し方を改めてください。部下に向かってそのような態度を取る必要がありますか?」
「……じゃ、名前を教えて。……これで、よろしいかしら」
男は廊下の突き当りのドアの前で立ち止まるとレンカのほうを振り返り
「エウジェンと申します。坊ちゃんは、名前では呼んでくれないのですけれどねえ」
とにこやかに答えた。
「ヴァレンティンは、あなたをどう呼ぶの?」
「ふふ、それは坊ちゃんにお聞きください」
エウジェンは楽し気にそう返すと背後のドアを開け、
「こちらがレンカさんの控室になります。私はここに待機しておりますから準備ができ次第、おいでください」
と言ってレンカを中へ促し、レンカが部屋の中に入ると外からドアを閉めた。
通された部屋は小さな客室で、レンカが入室すると同時に化粧台の側の明かりが自動的に点灯されたが、その光だけでは室内は薄暗く、窓にも重いカーテンが下がっており、レンカは急に閉塞感に襲われた。そして部屋を見回して、すぐにベッドの側に置かれている自分のスーツケースに気が付いた。ブダペストを発つ前にカーロイが「目的地まで送り届けさせよう。身軽に旅を楽しめるよ」と言って手配してくれたものだった。
レンカは「取り敢えず顔を洗って、あまり意味はないけど化粧し直すか」と思いながらゆっくりとスーツケースに近づき、ジャケットを脱いでベッドの上に放り投げた。そしてスーツケースに手を伸ばして、しまった、と思った。
しまった、電池切れだ。その言葉が浮かんだ瞬間、レンカはその場に立ち尽くし、動けなくなった。さっきから何となくは感じていた。ヴァレンティンに粗雑に扱われたような気がしては捻くれた態度を取り、エウジェンに名前を呼んでもらった程度のことに喜びを感じる。今の自分はどこからどう見ても心が渇いていて、電池切れと言うよりも、潤いを求める干上がった地面のような状態だ。今一人になって、やっと自覚した。しかし「アダムに会いたい」などと言葉にしてしまったら本当に動けなくなるような気がして、ただスーツケースを見つめたまま思考を停止した。まるでアダムに頼らなければ生きていられなかった頃の自分に戻ってしまうような、そしてその後カーロイに依存していた部分を再度アダムへの依存に再度すり替えただけのように見える自分の心の在り方も嫌だ。考えたくない。そう思っても、思考を止めたままでいられたのはほんの束の間で、それから頭の中に言葉が溢れ出した。
年末から既に移動が始まっていた。年が明けて家に帰れたと思ったら四、五日経ってルカーシュ・クレイツァルのところに行かなくてはならなくなり、その後すぐヴァレンティンに呼び出された。それからはまた移動してばかりだ。今のところ計画されていた仕事は全てうまく運んでいる。ペーテルを説得しなければならなかったりエミルのスロヴァキアでの一件が持ち上がったりと予定外の出来事もあったが、それらも良い結果に収まった。ただ、その全てにレンカがストレスを感じていたのも事実だ。
もしペーテルに自分の言葉が響かなかったら?ペーテルが力ずくでレンカを押しのけて目的を果たそうとすれば、腕力では到底敵わないだろう。カーロイから話を聞いてペーテルの元へ向かうまで、そんな心配が心の片隅にずっと居座っていた。暴力を振るうような子ではないことは分かっているのに、そんな思いを抱いた自分も嫌だった。エミルの場合はエミルの身を案じて居ても立ってもいられず、それをエミルにもアダムにも気取らせないよう懸命だった。
今朝早く、アダムと電話で話した。エミルがもたらした結果にいかに満足しているのか分かってもらいたくて、派手に喜んで見せた。それと同時に、アダムに空元気だと気が付いていてほしかった。ねえ、あなたの顔が見たいの。あなたに触れたいの。せっかく一緒に暮らし始めたのに全然家に帰れないのが辛いの。そう言いたかった。しかしそんなことを言ってアダムを煩わせては、十三年前の状況と何ら変わらないではないか?心配をかける自分ではなく、一緒にいることで幸せを感じてもらえる自分になりたいのではなかったか?「アダムを困らせるレンカ」は、もう卒業したのではなかったか?
レンカはスーツケースのほうに中途半端に伸ばして動きを止めた右手の指先を呆然と見つめながら
「でも、そんな風にすべてを理性で制御して理性の観点では筋の通らない心の動きを無視するのって、不健康だと思うの」
と声に出してつぶやいた。するとその声に答えるかのように頭の中で
「では君は、今この瞬間に何の制限もなく我がままいっぱいに振る舞えるとしたら、何をする?」
と何者かが問いかけるのが聞こえた気がした。レンカは、まるで欲しい玩具を買ってもらえず駄々を捏ねる子供のように床に仰向けに寝転がって足をばたつかせ、「アダムに会えなきゃ死んじゃう」と泣き叫んでいる自分を想像してみた。そして「なかなか興味深い光景だわ」と質問者に感想を告げると、静かな笑い声を漏らし、それからやっとスーツケースのダイヤル式の鍵に触れた。
エウジェンに面会相手が幽閉されている部屋だと言って案内されたのは、玄関ホールから更に真っすぐ館の奥へ進んだ半地下にある部屋だった。ドアの脇には監視役が一人で座っていた。エウジェンは
「私は彼と共にドアの前で待機していますから、何かありましたらいつでもお申し付けください」
と言うとドアをノックした。内側からロシア語で返事のようなものが聞こえるとエウジェンはドアを開け、レンカに
「さあ行ってらっしゃい。レンカさんに失敗などあり得ません」
と励ますようにささやき、部屋の中へ促した。レンカはエウジェンに軽く微笑みかけると部屋の中に入り、自分でドアを閉めた。その部屋はレンカの控室とは比べものにならなくらい広かったが、やはり照明は最小限に落としてあるようだった。
部屋の奥の火の入っていない暖炉の側のソファに座っていた男は驚いたように立ち上がった。きっと監視役が様子を見に来たか世話役が茶でも運んできたと思ったのだろう、事前に何も知らせておかないとはいかにもヴァレンティンらしいやり方だ。そう思いながらレンカは部屋の真ん中あたりまで進んで立ち止まり、男に会釈をしてから
「初めてお目にかかります。レンカ・ハルトマノヴァーと申します」
と名乗った。四十代も半ばかと思われる短躯で肩幅の広いその男は更に驚いた顔をして、それから首を小さく横に振ると表情を楽し気な笑いに変化させ、
「お目にかかれて光栄ですな」
と丁寧なドイツ語で返した。男が続けて
「では、私をとっ捕まえた一味の首謀者は貴女であるという判断で間違いございませんか」
と尋ねると、レンカは微笑みながら
「少し長いお話になります。よろしいでしょうか?」
と言って男の向かい側のソファに目をやった。男は「もちろんです」と答え、レンカが座るのを待って、自身も腰を下ろした。
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