浮き彫りバッカスは葡萄を見つめる
初めに異変に気がついたのは、ガラスの大皿が割れたときだったと思う。その厚手の透明ガラスの皿を父方の祖母から譲り受けたのは20年ほど前だが、彼女の嫁入り道具の一つだったのかもしれない。少年の姿のバッカスが手にした葡萄の房を見つめるレリーフが裏面から彫り込まれていて、今同じものを手に入れようとしたら相当な金額になると思われる、手の込んだ作りだった。このような大皿は我が家にはこの一枚しかなく、ずいぶん重宝していたのだ。
ところがある日、真っ二つに割れてしまった。焼きたての丸パンの下でビシッと鋭い音が聞こえたかと思うと、パンの下には細い数ミリ幅の溝が出来ていた。どっしりとした焼き上がりとは裏腹に、急に所在なく見えてきたパンをどけてみると、大皿は中央のバッカスを縦に引き裂くかのように割れていた。
もう寿命かしらね、そう言いながら妻はパンを別の皿に避難させた。君がいつも粗熱を取らずに焼きあがったパンやらケーキやらを皿の上に乗せてしまうのが良くなかったんじゃないか、と言ってやろうかと思いながら、体を縦に切断されてしまったバッカスに目をやり、おかしなことに気がついた。
右手に掲げた葡萄の房を見つめていた横顔が、逆の方向を向いている。その葡萄を持っている手も左手に持ち替えられている。
「なあ、バッカスのレリーフ、左右入れ替わっていないか?」
そう聞いてみたが
「変なこと言ってないで危ないから早く片付けてよ、お皿」
というそっけない返事が返ってきた。
その時からだ。
ふと、気がついてしまうようになったのは。以前左利きでも達筆だな、と感心していた同僚が右手でメモを取っていたり、幼いころから目立っていた姉の右目の下のほくろが左目の下に移動していたり、そういったことに。
気がつき始めてしまうと、いろいろなことが気になりだした。ピアノの鍵盤は右へ行くほど低音になる、テンキーはキーボードの左にあるものだ。そういった当然だと思っていたことが、まるで誰かに思い込まされているような気がしてきたのだ。
思い込まされている?いったい誰に?
不可思議な気づきについて書斎で考えていたときだ。書き物机の隣にたたずむ姿見が目に入った。左右が入れ替わるなんて、まるで鏡の中みたいだな、そう思った瞬間、鏡の中の自分の目が皮肉っぽく光った気がした。
「まさか、お前が…」
思わず声が漏れた。鏡の中の自分は平然とこちらと同じ動きを続けている。しかし直感的な確信があった。どうしたらいい?そうだ、気づきのきっかけはバッカスの大皿だった。祖母の形見だから、となかなか捨てられなかった大皿を引き出しから引っぱりだした。
ガラスのバッカスは相変わらず左を向いている。自分は昔からこれを表からしか見てなかった。二片のガラスの半円と化した皿を裏返して合わせてみた。なじみのある右向きのバッカスが姿を現した。
顔をあげると、鏡の中の自分が一瞬悔しそうな顔をした。
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本記事は「夏ピリカグランプリ2022」への出品作品です。
noteで掌編を発表するのは今回で3回目ですが、今までの「主人公がストレンジャーと話しているうちに本性を暴かれる」パターンからは抜け出せたかなと。
ちなみに普段はギリシャ・ローマ神話の名前の表記はギリシャ名を優先させたい人間ですが(ヴィーナスよりアフロディテとか)、今回は文字数を稼ぐため「ディオニュソス」ではなく「バッカス」としました。