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その名はカフカ Inverze 15
2015年1月リンツ
本名など名乗っても何の得もないし、この業界では誰も相手の名前を本名だと思っていやしない。オーストリアにやって来て自分の組織を作ることになった際、何かを名乗らなければいけないが後々後悔しないような格好の付いた名前を考え出すセンスもない、と少し悩んで「与格」を意味する文法用語の「Dativ」を自分の名前に選んだ。何となく、何でも与えてもらえる人間になれそうな気がした。嫌ならいつでも変えられると思っていたが、一度名前が浸透してしまうと、特に自分が率いる組織がここまで大きくなってしまうと、そう簡単なことでもないことに気が付くのに大して時間はかからなかった。
ダティフは高層ビルに入っている事務所の応接室の窓からリンツの街並みとその景色の中央辺りに横たわるドナウ川を見下ろしながら、来客の登場を待っていた。側近の一人を同席させているが客は嫌がるだろうか、少々無骨な顔つきだが身のこなしには品のある男だし印象は悪くないだろう、などと考えながら壁の柱時計に目をやった。この初めて迎える客は約束した時間通りに来る人間なのだろうか。この辺りは個人差も大きいが、国民性も考えておいたほうがいい。ダティフが知る限り、チェコ人というのは得てして約束した時間よりかなり早く顔を出すか遅くやって来るかで、つまり「時間の正確さ」にあまり頓着しない。そこまで考えたところで秘書がノックをしてドアを小さく開け、
「お客様がご到着ですが。今すぐお通ししても?」
と尋ねた。ダティフは柱時計と腕時計の両方に目をやって「時間には割と正確なんだな」と心の中で独り言ち、
「もちろんだ。お待たせする理由はない」
と答えた。秘書が立ち去ると壁際の椅子に座っていた側近が立ち上がり、ダティフはドアに近づいてドアを大きく開け、秘書が来客を連れて来るのを待った。
暫くして秘書が廊下の右手から来客を伴って再び現れた。客は三十過ぎの比較的背の高い痩せた女で、小洒落たスーツを着ている。ダティフは「話に聞いた通りだな」と思いながら女を笑顔で迎え
「お待ちしておりましたよ、ハルトマノヴァー殿」
と言いながら女に右手を差し出した。女も軽く微笑むと
「初めてお目にかかります。お招きありがとうございます」
と答えダティフの手を握った。ダティフはハルトマノヴァーを応接室の中へ促しドアを閉め、
「いや、依頼があるのはこちらですからね、礼を言いたいのはこちらのほうです。ご足労ありがとうございます」
と言ってから客の半歩先を歩いて接客用の丸テーブルのほうへ向かった。
ダティフがテーブルの周りの椅子のうちの一脚を引いてそこに着席するよう目で促すと女は礼を言うように軽く頷いたが、すぐに部屋の隅に立っている側近に気が付いて、側近のほうへ目をやった。
「お気になさいますか?重用している部下の一人なのですが、同席していても構わないでしょうか」
ダティフがそう聞くと、女は
「私たちの話し合いの証人となっていただくためにも、ご同席いただいたほうがこちらとしても安心です」
とだけ返して側近に向かって軽く頭を下げると席に着いた。側近は「よろしくお願いします」と言って、ハルトマノヴァーが座るのを見届けてから腰を下ろした。
ダティフは側近が座っているのとは反対側の壁に取り付けてある小さな半円のテーブルに近づき、先ほど沸かしたばかりの湯が入っているポットから小さなティーポットに湯を注ぎ、そのティーポットを左手に、ソーサーに乗せたティーカップを右手に丸テーブルのほうへ戻った。それから「まだ早いかもしれないが話し始めると茶のことなど忘れてしまうだろうからな」と思いながらカップに茶を注ぎ、ハルトマノヴァーの前に置くと、女と向かい合うように席に着き、テーブルの上で両手の指を組んだ。
「こちらも貴女がお一人でいらっしゃるとは思っていなかったもので。よく付き添いの方をお一人同伴されて交渉にいらっしゃると聞いていましたから」
「以前も会談には私一人で臨むこともあったのですが、最近は特に信頼できる依頼主様のところには単身で伺うようにしております」
「初めて依頼のご相談をいたしましたが、お一人でいらっしゃったということは、それだけ信頼していただけていると受け取ってもよろしいのでしょうか」
ダティフがそう尋ねると、ハルトマノヴァーはにこやかに
「もちろんです。こちらの組織のお噂はかねがね伺っておりましたし、この度お声をかけていただけて大変光栄に思っております」
と答えた。ダティフがハルトマノヴァーの表情を追いながら「聞いていた話とちょっと違うな。相手によって態度を変えるということか」と頭の片隅で考えていると、ハルトマノヴァーは
「早速本題に参りたいのですが、今一度ダティフ様からご依頼内容を詳しくご説明いただけますでしょうか」
と続けた。「ダティフ」と発した瞬間に女が少し可笑しそうに口元を歪めたような気がする。ダティフは「こういうのが名前の選択を間違ったと思わせられる瞬間なんだよな」と思いながら口を開いた。
「既にお知らせしました通り、私どもが依頼したいのは一人の男を探し出して拘束し、こちらに引き渡していただくことです。この男はウクライナとモルドヴァの国境辺りの出身で、ロシア語圏の裏事情に非常に詳しいという評判がある上に西のほうへ移動して来てからは様々な裏社会の人間と関わったらしく、ドイツ警察及びオーストリア警察に外部協力者として重宝されていた人物です。ところが昨年のマイダン革命、ロシアの軍事介入辺りで警察内部からごっそり機密情報を持ち出し、行方をくらましました。彼が持ち出したもの、そして彼が握る情報は何もロシア語圏に関するものだけではありません。多くの欧州の犯罪組織にとって表に出してもらうわけにはいかない情報が大量に含まれているのではないかと言われている。我々は、警察に捕えられる前にこの男を手に入れたいと考えています」
「そこには、ダティフ様の組織に不利になる情報も含まれているとお考えですか?」
「そうでなければ、貴女のような大物に相談することもなかったでしょう」
「私に関して、どのような話を耳にされましたか?」
「依頼主の期待には必ず応える方であると。今までに遂行できなかった依頼はなかったとか。それに加えて昨年六月のバルカン騒ぎです。あの噂で貴女は更なる名声を得られた」
ダティフの最後の一言に、ハルトマノヴァーは少し困ったような笑いを見せた。
「あればかりは噂は噂である、としか言いようがありませんね」
「真実ではない、と?」
「どうお答えしましょうか。確かに私も六月の盗難騒ぎのおかげでリュブリャーナに出向きはしました。しかし、あの時の私の依頼主が誰だったのかも全く噂されていないでしょう?それはなぜだか、お考えになりましたか?」
ダティフが肩をすくめて見せると、ハルトマノヴァーは
「あの時は私の興味本位であの争奪戦に顔を出したようなものだったのです。成功しようがしまいが、後々私の立場を左右するような案件ではありませんでした」
と言葉を続けた。
「つまり、貴女の圧勝であったという噂を、否定されるのですか?」
「せっかく多くの方に信じていただけた噂なのですから、否定はせずにおきたいところです」
つまりどっちなんだ、と苛つく心の中の声を抑え、ダティフは
「余計なことを申し上げて話が逸れましたね。それで、今回の私どもの依頼は、お受けいただけるのでしょうか?」
と尋ねた。
「一つお聞きしておきたいのが、なぜ今なのかということです。クリミア併合を巡る騒乱の開始から既に一年が経とうとしています。くだんの男が失踪したのはその頃なのですよね?」
「もちろん私どもも自分たちの力で探し出そうとはしました。それで無理だったから、貴女にこうして相談しているのです」
女が一瞬考えるような顔をして、ダティフが「これも演技なのかな」と思いながら女の顔を観察して、それから女は
「承知いたしました。喜んでお受けしましょう」
と言って微笑んだ。
依頼主の秘書に見送られて訪問先のビルを出た瞬間、レンカの右耳の中のイヤホンから
「ビンゴです。サンプルは一言だけだったけど」
とエミルの声が流れてきた。レンカはすぐにでも詳細を聞きたかったが、今この瞬間に「外」と通信機器で繋がっていると知られるわけにはいかないなと思い、返事をせずに歩き続けた。
この後の予定はあえて姿を晒したままカーロイの協力者の一人と落ち合ってレストランに入り、会食の後〝ハルトマノヴァーである状態〟は完全に消し去ってホテルに戻ることになっていた。もちろん全行程スルデャンの護衛付きだ、何も恐れることはない。そんなことを思いながらリンツの街並みを楽しんでいるかのような顔でレンカはさして急ぐ様子も見せず歩き続けた。しかし五分ほど歩いたところで
「レニ、作戦変更です」
と再びエミルの声が聞こえた。
「今すぐ全ての監視の目を撒いてください。護衛の方には既に連絡が入っていますからその後の逃げ道は彼に任せます。ホテルの荷物はカーロイさんの協力者の方が回収してくださいます」
レンカはこの唇を動かすわけにはいかない状況がもどかしかった。ねえエミル、ちょっと遅いみたい。そう言いたかったが、言葉を発するわけにはいかない。きっとエミルもレンカから緊張した空気をイヤホンの向こうで感じ取ったに違いない、そう思った瞬間レンカの隣に一人の男が現れ、レンカと歩調を合わせて歩き始めた。
「先ほどはろくにお話しもできませんでしたね」
そう話し始めた男をレンカは横目で見て、また前方へ目を戻した。
「今この瞬間も、貴女には隠れた警護の者が付いている、と判断したほうがよろしいのでしょうかな」
「……あなたのことは、どうお呼びしたら?ゲニティフとでもおっしゃるのかしら」
「ノミナティフのほうが主体的で響きがいい気もするが、お好きなように」
「お名前はいただけないのですね」
「お互い時間がないのだから、もっと大切な話をしませんか」
「せっかく追ってきてくださったのだから、一つお聞きしたい。これはどういうカモフラージュなのですか。ダティフ氏は影武者であなたが真の頭首?それとも共同統御で彼が表に出るという形にされているのかしら。大抵の権力者は自分の部下に階級の低い者として紹介されるのは、いくら演技でも屈辱的に感じられるものではないかと思いますし」
「その辺りを説明しようとすると、いろいろ複雑になってきますね。外部の、しかも貴女のような力を持つ人間ににお伝えできるようなことではない」
「いいでしょう。では今あなたは何の話があって私の散歩に付き合うことにしたのですか」
「世間話です」
「先ほど大切な話があるとおっしゃいませんでした?」
「大切な世間話です。六月に貴女も交渉に当たったスロヴェニアのイリヤ・ドリャンが昨年の秋、ハーグへ連行されたという話は貴女の耳にも入っているかと思いますが?」
男がそう聞いても、レンカは返事をせず男の話を待った。男のほうもレンカの返事を期待しているようではなさそうだった。
「しかし証拠不十分だとかで、年末には釈放された」
「多くの政治家や軍人を含む戦犯を捕え有罪判決を下した後では、今更一般人の情報収集屋など相手にしていられなかったのかもしれません」
「そしてドリャンは釈放された数日後に何者かに殺害されたともっぱらの噂だ」
レンカは今度も返事をしなかった。男は可笑しそうに小さな笑い声を漏らすと
「我々は無駄な血を流すためにこの業界で動いているわけではない。しかし、死人は出る。必要に応じてね。そして今回、私がこの地に棲息していることを知っていながら、貴女は招待を受け入れやって来た。その勇気を称えよう」
と言った。レンカは無表情のまま
「私の隣を歩いている、それだけであなたは私に命を預けているという事実を忘れていらっしゃるようね」
とだけ答えた。
「しかし貴女も余計な暴力沙汰は避けたいでしょう?貴女に物理的な危害を加えない限り、貴女の隣を歩くのもそう危険なことじゃない」
そう言う男に、レンカは冷ややかな視線を送ると
「そろそろ、離れたほうがよろしいのでは?私という人間は必要以上に他者に近づかれることを嫌う」
と言ってまた前方へ視線を戻した。男は
「お話しできて良かった。仲良くはしてもらえなさそうだが、お互い敵は増やしたくない、その気持ちは確認できたのではないかと思う」
と言い残して、レンカの傍を離れた。
レンカは表情一つ変えず同じ歩調を保ったまま歩き続けた。そして最初の角を左へ曲がったところでスルデャンがレンカの手を取り
「大丈夫か?」
と聞いた。レンカは嬉しそうに微笑むと
「今日の収穫は予想していたよりずっと大きいわ」
と答え、エミルに
「無事合流したから、一旦切るわね」
と言ってイヤホンの電源を切った。
それからスルデャンはレンカを連れてリンツの街から姿を消した。
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