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挑戦は全て糧になる。株式会社BigBelly代表・大林 芳彰が飲食で、そして飲食を超えて実現したいこととは

「飲食と、ともに。」は飲食店経営者、従業員など“飲食”とともに生きる人の人生にフォーカスするnote連載です。過去の経験から生まれた考え方、経営や仕事へのこだわり、外食産業へのメッセージを届けることで、外食産業をともに盛り上げていくことを目的としています。
今回は、株式会社BigBelly 代表取締役 大林 芳彰さまにお話を聞いてきました。


大林 芳彰丨株式会社BigBelly・代表取締役。オリエンタルビストロAGALICOやアガリコ餃子楼などを、直営17店舗とFC店舗5店舗展開。都内を中心に韓国にも広げている。


営業職から飲食の道へ。心に火を着けた一杯のフォーとの出会い

社会人のキャリアをハウスメーカーからスタートした大林さん。きっかけは、ある日見かけた就職説明会だった。行列に興味を持ち並んでみると、その正体は工務店の就職説明会。「こんなに人が並ぶなんて、景気がいい会社だなあ」と思った大林さんは、そのまま面接を受けることに。トントン拍子に面接に通り、「世の中は就職難だが、面接に受かったのは幸運だ」という思いからそのまま就職、個人向けの住宅営業に従事した。4年間働き一通り社会人としての教養・営業力が身についたと感じ、やりたいことがあったわけではなかったが退職を決意した。
次の仕事をどうしようかと考えていた時、大林さんに大きな転機が訪れる。たまたま入ったタイ料理屋のフォーの美味しさに衝撃を受ける。これまで食べてきたフォーの概念が覆されたその店は、株式会社グローバルダイニングが運営するモンスーンカフェだった。
幼い頃から料理が好きで、祖父が営む飲食店を継いで居酒屋を経営したいという夢を心の片隅に持っていた大林さんは、「このフォーを作ることができるようになりたい」と思い、次の日にはグローバルダイニング社の面接に応募した。無事に面接に合格した大林さんは、夢を叶えるために夜の17時から朝の5時までアルバイトとして必死に働いた。体力的にも精神的にも大変だったが、2年後にはアルバイトリーダーにまで昇格していた。

グローバルダイニング時代の写真。赤いキャップが大林さん。

当時、グローバルダイニングで社員になるのは相当狭き門。ポストが空かなければ役職に就くことができないことに加え、立候補後に社員投票で選出される仕組みだった。自分は選ばれるための武器を何も持ち合わせていないと考えた大林さんは、なにか1つでも得意を身に着けたいと思い、海外での修行を決意。当時フランスやイタリアなど食に精通している国に行く人は多かったため、他の人にない自分だけの強みを身につけるためタイに行くことに。昼は屋台を巡り、夜は現地のレストランで働いた。何も守ってくれない環境で生き抜いた経験は、大林さんにとって大きな自信に繋がった。「タイの現地の味を再現出来る料理人」。大林さんはタイでの修行の経験により、自分だけの大きな強みを手に入れた。


実力を伸ばしてチャンスを形に。独立までの道

タイから帰国した当時29歳の大林さんに、チャンスが巡ってくる。モンスーンカフェ渋谷店の料理長のポストが空いたのだ。すぐさま立候補し、無事に選ばれて料理長になった。しかし当時のグローバルダイニングには、"10ヶ月連続で前年度月の売上比を下回ると役職が自動降格する"というルールが存在。大林さんはプレッシャーを抱えながらも、「絶対にやってやる」と闘志を燃やし、利益を追求するためにさまざまな策を練り実行した。すると渋谷店の売上はうなぎのぼりに上がり、前年の記録を更新し続けた。その後も売上最大規模のお台場店や船橋店、舞浜店の料理長を経験した。料理長の責任範囲は食材原価やキッチンスタッフのシフト・人件費管理までに及び、利益を上げるための数字の計算から教育まで、幅広い能力が身についた。自分が努力し成長すれば、自ずと結果はついてくることが、確信に変わった。その頃すでに独立したいという気持ちも芽生えており、これまで何度もタッグを組んできた酒井さん(※1)に独立のことを話すと一緒についていきたいとオファーがあり、2人で独立することに決めた。

※1 株式会社BigBelly共同代表。


即行動とサンキューメール。大林さんのモットーでご縁を引き寄せる

2011年2月にグローバルダイニングを退職し、初めてのオープンを決めたのが現在の「アガリコオリエンタルビストロ池袋店」。3月12日に物件の契約を決めていたものの、前日に東日本大震災が発生。計画停電で電気が使えないなどアクシデントがありながらも、なんとか6月にオープンを叶えた。ある友人の飲食店が朝までの営業スタイルで大繁盛していたことから、アガリコも夜18時から朝8時までオープンしたところ、朝まで満席で初月から黒字を叩き出した。これまでの経験から商品開発力が身についていた大林さんは、ワインとアジアン料理を掛け合わせたこれまでなかった業態・商品を創った。さらに当時のワインブームもあり、アガリコは瞬く間に流行りの店となった。その後北千住、中野にも出店を進める中で、人生に影響を与える出会いが。それが、現串カツ田中ホールディングス会長の貫さんだ。「貫さんは人柄も経験値も凄く、会った瞬間に今までであってきた人とは違う何かを感じました」と話す大林さん。貫さんが運営する「串カツ田中」のFC店舗を運営することを決め、池袋と北千住で5店舗にまで拡大させた。ここでFC運営のノウハウを学んだことが、後のFC展開に繋がっている。また同時期にマッコリメーカーのオーナーともつながり、韓国出店のオファーを受け海外進出に挑戦することに。このような縁を引き寄せられる理由として、大林さんは大切にしている自身のモットーを話す。「誘われたら必ず行くこと」「必ずすぐにお礼の連絡をすること」「お墓参りをすること」。飲食経営者の先輩の姿や過去の経験から、うまくいった時の行動を徹底するようになったのだという。こういった細かな積み重ねにより、大林さんはチャンスを掴んできたのだ。


失敗も、学び。ハワイ進出で得たもの

韓国での出店が成功した大林さんは、次はハワイでタイ料理店を出すことを決めた。しかし、オープンまでに1億円を消費。2016年に無事オープンを果たすもうまく集客ができず、3年で撤退となってしまった。ハワイのマーケットに合うお店を作れなかったことが失敗の理由だと話す大林さん。日本や韓国での成功事例をハワイでもそのままの形で展開してしまったためだった。しかしこれもマーケットインの大切さを学ぶ良い機会になった。長時間労働やプレッシャーを乗り越えてきたグローバルダイニング時代の経験を思い出すと、こんなことでくよくよしている場合ではない、と自分に喝を入れた。ハワイでの経失敗経験を知った株式会社スパイスワークスホールディングス代表取締役の下遠野社長に声をかけられ、「いづも 池袋」をオープンさせた。失敗を成功に変えるのも自分自身だと、自身の経験を元に語ってくれた。


目の前の人が喜ぶことが原動力。

自分の店で働いたスタッフが独立できるように経験をさせてあげたいという大林さん。「こんなお店を創って欲しい」と依頼をいただくことも増えてきたのだそう。「そう言ってもらえたら、止まっていられないよね」と笑顔で話す。
コロナ禍で苦しんでいた飲食店の手助けをしていたことをきっかけに、推薦されてなんと選挙にも出馬。大林さんは常に人のため、飲食業界のために動き続ける。
大林さんの原動力は何かと聞いてみると、「目の前の人が喜ぶこと」だと話してくれた。自分の行動が人や業界のためになるのではないか、と考えると、チャレンジの気持ちが湧いてくる。ダイニーとともに創りたい世界は、"飲食店スタッフ全員がお客さまを喜ばせるために集中できる環境"。大林さんはこれからも、周りの人々を笑顔にするための挑戦を続ける。


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