春生まれ
気付いたときには春が大嫌いになっていた。
思い出せる最も古い記憶は中学1年生の4月、学校に行きたくないと泣いていた。嫌なことがあった訳ではなく、ただ環境の変化に心がついてこなかった。
そのうちこの季節が苦手なのだと気付き、同時に嫌いになった。何もかもが変化していく春は保守的な私の天敵となった。
学校でも、会社でも、春は必ず環境が変化した。私には逃げ場が無かった。
春を嫌いだと思えば思うほど、冬を好きになっていった。
誰もが寒さに体を縮め、逃げるように家に帰っていく。心も体も調子が悪くなりやすく、塞ぎ込んでいく。みんながそうしているから、自分が悪目立ちすることがない。
多くの人が春を待ち侘びて冬をやり過ごそうとしていて、だけど、いやだからこそ私は冬が好きだと主張した。嫌われ者に手を差し伸べる優しい人になったつもりでいるのはいい気分だった。
私は、春生まれだ。
大学生の頃、私は"生きる意味"ばかり考えていた。生まれた理由、自分の価値。それらを早く見つけなければ、私など世界にとって迷惑な存在でしかない気がした。そもそも3月下旬という誰もが多忙な時期に生まれた時点で迷惑だとさえ思った。春生まれだから心が不安定なのだろうか、とも。春生まれの自分を疎み、自分が生まれた春を疎んだ。
そんな歪みきった春への憎悪から解放されたのは、2年前だった。
3年前の夏、仕事を辞めて専業主婦になった。慣れない生活とはいえ忙しさはなく、心も体もスローダウンしていった。
迎えた翌年の春、私には何の変化も待っていなかった。クラス替えも人事異動もカリキュラムも業務内容も、私には関係のない話だったから。
いつものように散歩に出た。近所にある大好きな公園。菜の花の黄色と桜のピンクがふわふわ揺れて、その間を白い電車が走り抜けていった。世界は暖かくて、華やかで、綺麗で、可愛らしくて、穏やかで、柔らかかった。人々はゆっくり歩き、写真を撮り、笑い合っていた。
春が好きだと思った。
元々自然を見るのは好きだ。とりわけ花を見るのは。春の花は種類が多くて、見つけるたびに心がときめいた。暑さより寒さが苦手な体は、春の暖かさに解されて軽かった。
そんな当たり前のことに、私は気付いていなかった。こんな素敵な季節を、どうしてあんなに嫌っていたんだろう?この季節に生まれたことを、どうして誇らなかったんだろう?
そして今年も春を迎え、また一段と春が好きになるとともに、私はこの季節に前を向く人の強さのことを考えている。
高校生の頃、知人から誕生日プレゼントに"誕生日は親に感謝する日"という主旨の本をもらったことがあった。説教臭いそのプレゼントを、当時の私は嬉しく思わなかった。
母は、第一子である姉を産んだ後、なかなか子を授からず焦った時期があったらしい。私自身が不妊で悩んでいる今、その気持ちは痛いくらい分かる。春に生まれたことを呪った日もあったけど、咲き始めた桜の下で生まれたばかりの私を抱いた母の気持ちだって、今なら想像できるのだ。今の私は私が生まれたことを誇りに思いたいし、産んでくれて、育ててくれてありがとうと言いたい。
私は、実の両親やその他大勢の人々だけでなく、私を取り巻く資源や技術にも育てられ守られてきた。そういう意味で、それらを発見し開発してきた先人達も、私の"親"と言っていいのかもしれない。その"親"たちも、私と同じように変化を恐れたり努力を面倒臭がったりしたこともあっただろう。それでもきっと春には前を向き、別れを選び、新しい道を歩んだその先で何かを掴み、そうして築かれた世界に私は生きている。変化に立ち向かった"親"たちの強さがあって今の私がある。
大それたことでなくていい、何か新しいことを始めなくてもいい。ただ、前を向こう。気付いたことを強さにしていこう。そういう明るいことを思った。
春は、そういう季節だから。
そういう季節に、私は生まれたから。