豆乳は免罪符
贖宥状こと免罪符。なんて素敵なシステムなんだろうか。素晴らしい発想だ。罪を犯すのを我慢できないから、お金なり別の功徳なり、自分ができる何かしらの行為で、その罪を許してもらおうとする。人間らしい効率性と、怠惰なところが掻け合わさった、面白いシステムだと思う。
何の話をしたいかというと、キリスト教批判でも、人間の原罪について語りたいわけでもない。豆乳にハマっているという話。
清涼飲料水を飲むのだけはやめとけ
大好きな本がある。『科学者たちが語る食欲』という本。
食欲とはなにか、なぜ起きるのか。それを人間に限らず、あらゆる生物に対象を広げて語っている本。すべての生物は「タンパク質」を満たすために食事をするという、衝撃的な事実から始まる名著。
明瞭かつ本質的な事実を、多くの実証実験を交えつつ、ユーモアも交えながら書かれた本著は、すごく好きな作品で、2022年の個人的なベスト科学本。
この本の後半は、じゃあどういう食事が良いか、という話になるのだが、その本の中で筆者が口を酸っぱくして言っているのが、「清涼飲料水だけはやめとけ」。
清涼飲料水は食欲を満たすタンパク質は含まれていないし、人工的な甘味料、化学物質が大量に含まれており、飲む価値がないと。
それを真に受けて、自分も極力そうした飲み物は飲まないようにしている(酒は別)。
でも、人間だもの、どうしても甘いジュースが飲みたくなる時がある。人工甘味料を味わい時がある。
そんなときに見つけたのが、これ。豆乳。
ココア味、バナナ味、豊富な味の種類があり、ジュース感覚で飲める。
何よりも重要なのが、健康に良いという特性を持っていること!
イソフラボンだの、豊富なタンパク質だの、とにかく巷には豆乳の健康へのメリットのアピールが溢れている。少々お値段はするが、罪悪感を感じずに美味しく飲めるのであれば、十分お金を払う価値はある。
そう、豆乳は免罪符なのである。
健康を維持するという規律を遵守できない怠惰な自分が、お金を払うことで神(自分の中の健康への意識)への許しを得る。
マルティン・ルターがどれだけ批判しようとも、形を変え、免罪符は人々の心に生き続ける。人間が怠惰である限りは。
そんなことを考えながら、今日も豆乳を飲んでいます。
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