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学校で学ぶということ。(1)

グループ活動の意義

 先日、6年くらい前のドラマを見ました。岩井俊二さんが製作した「なぞの転校生」という連続ドラマで、SF作家の眉村卓さんの原作です。一定年齢以上の方には懐かしいタイトルかもしれません。

 このドラマの中で異世界からやってきた王女が転校生として現れ、主人公の女子高校生に「こんな誰でも知っていることを学ぶ(異世界では常識)のに、学校に行く必要はあるのか?」と問いかけます。すると女子高校生は、「学校は友達をつくるために行くのだ。」と答えるのです。

 学校という場は、教科の学習だけでなく、人間関係の形成の場でもあるという認識は多くの人が持っていると思います。教師も学問を教えるだけでなく、クラスの中で生徒同士の円滑なコミュニケーションが生まれ、学級集団が互いに学び合いながら充実した1年間を過ごせるように、指導しようとします。

 筆者が長いこと勤務した学校は、幼稚園から高校までの総合学園で、大学は持っていません。その中で中学と高校に所属し、中学1年生から高校3年生まで担当しました。現在のこの学校の教師でも、中学生・高校生の全学年の担任をした人は、最近退職された先生が1人おられてくらいで、ほとんどいません。中学生だけとか、高校生だけとかの担当が多いのです。

 中学1年生は、学園内の小学校から進学した生徒と、受験を経て公立の小学校から進学した生徒からなり、私が担任をしていた当時は、ほぼ半々の割合でした。最近は少子化の影響から、公立などから受験で入学する生徒が減少傾向にあるのが現状です。

 中学1年生では、このような私立中学の特徴を踏まえて、いわゆる「学級開き」を工夫します。受験で入学した生徒は、校区を離れた新しい環境に不安をもっています。特に新しい友人ができるかどうかが一番の心配事です。また学園内の小学校から進学した生徒についても、教師は4月の時点で最低限必要な情報は知らされますが、ほとんど未知数といってもいいくらいです。さらに学園の小学校からの情報が、担任よっては偏っていることもたまにあるのです。

 まず最初の座席は出席番号順で座ってもらいますが、その座席をもとに班区分をします。その際、学園内の小学校からの生徒と、受験で入学した生徒  をバランスを十分考えた班区分を行います。この班がこれからの学校生活の基本単位となるのです。

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 たとえば4班構成の場合、上の図のように班の境界に多少の凸凹はあっても、学園小学校からの生徒と受験進学生の生徒の数を1つの班に出来るだけ同数配置できるようにやっていきます。この班が学校生活を送る生徒の当面の行動単位となります。

 このように班を編制してクラスを指導する意義は、次のようにまとめることができます。

①子供は集団の中でこそ育つ‥‥一人ひとりの心がけは大事だけれども、心がけだけでは人間は良くなれない。みんなが良くなれる条件をつくらなければ、一人ひとりもよくならないのではないか。
②集団の中で生活する力を養う‥‥特に女子生徒の場合、少人数でグループ化し、閉鎖的で公共性に欠ける傾向があります。従って私的ではないグループ活動を特に強化し、互いの個性を理解し尊重するためにも必要だと考えます。
③子供の自己認識の契機とする‥‥生徒は教師とつながっているだけでは、自分を発見できません。集団における個人の位置を鮮明にし、個人に集団との折り合いのつけ方を教えます。生徒同士の生活の中で集団にもまれて自分を発見していく必要があるのです。

 最近の生徒の問題を見ると個人指導の重要性が増しているが、班活動を基本に据えた学級集団づくりは必要ないと考える教師がいたり、必要性を感じながらも多忙さによって手が回らない教師も多いようです。けれども教師は、説教し注意し知識をつめこむというような指導では生徒の心を引き付けることはできません。より深く生徒の内面に立ち入り、そこにある苦悩を理解しながら粘り強く取り組まなければ、指導がなかなか生徒に浸透しないのです。その意味で生徒の成長に集団のもつ意義は大きいのです。ここで育つ力こそが、子供達のたくましさ、強さ、自立への源泉となると思います。

 「学級集団づくりでは、個人が埋没してしまう」という人もいます。しかし集団づくりの本質を理解すれば誤解に過ぎません。集団づくりとは、集団指導と個人指導を統一的に行っていくものです。教師が集団を全体として指導する中で、間接的に生徒一人ひとりの自立をうながしていくわけです。また、個人指導は、教師が生徒一人ひとりを個別的にかつ直接的に指導するなかで、その生徒の集団への参加を引き出していくことなのです。

 次回は具体的な班活動についてお話をします。

(つづく)

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