学校で学ぶということ。(4)
班活動で学級は変わります
班での活動の例を前回お話ししました。教師は活動に評価を与えます。評価によって、生徒達は自信をつけて色々な問題に挑んでいくのです。そしてリーダーが育ち、教室の中に「正義」が通るようになります。「正義」が通るようになると、おとなしい生徒でも生き生きしてきて、学級は活発になってくるのです。ところが、えてして子供の問題にすぐ口を出し、「解決」してしまうのは決まって担任なのです。何が「正義」かを決めるのも担任、 おとなしい生徒がいればすぐに手をさしのべるのも担任です。これでは子供の世界は大人の掌に乗って動けばいいだけで、子供はつまらないはずです。だから子供は伸びないし、育たないのではないでしょうか。それでいて、教師は生徒が動かない、自主性がないとこぼすわけです。
一方、子供の問題だからといって、ほとんど口を出さないで「自主性を伸ばしている」つもりになっている教師もいます。大いに問題です。そうなると、話し合いなどで口の立つ生徒、力の強い生徒が一方的に問題を裁断し、結果的に「いじめ」の様になってしまうこともあります。
日頃の班活動を積み重ねていくことによって、集団の目指すものを生徒が体感することができるようになり、これを学級活動(体育会、発表会等)に発展させることは難しくありません。一般的にいって、班を基礎単位としてない学級の場合、外見上元気が良かったり、まとまっているような感じを与えいても実質がない場合が多いのです。実際の例ですが、修学旅行で班分けや部屋割りを決めるときに、必ずトラブルが生じるクラスがあります。なかなか話し合いが進まず、特定の生徒がわがままを言ったり、口の立つ生徒が自分の思い通りにしようとするのです。そんな学級集団はこれまでに、班活動を中心とした指導がなされていなかったのでしょう。
クラスが機能するための実質とは生徒間のコミュニケーションの成立と、教師対生徒のコミュニケーションの成立です。学級というものがコミュニケーションが成立するような有機的な集団になるためには、教師(学校)側からつくられた場でありながらも、どこかで何かを契機として、生徒達が学級を「自分達のもの」に組み替えていく必要があるのです。班のない学級の場合、この組み替えがなかなか難しい。結局、担任教師から個々の生徒に放射状につながっているだけの関係しか成立していないからです。
(終わり)
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。次回はまた話題を変えて、さらに学校の話をしていこうと考えています。
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