大学の研究室は、永久就職の場ではない。
朝日新聞は2023年05月08日は、竹野内崇宏記者の記事として、『「私は使い捨て」雇い止めの東大助教 50代で直面した研究界の現実』を」読んで、ものすごい違和感を感じた。
東京大学の生命科学系講座の助教だった50代の男性は、2023年03月31日に研究室の郵便受けに入っていた最後の辞令を手にした。
「令和5年3月31日限り任期満了退職」
この1年間、研究のかたわら、死にものぐるいで研究職への応募を続けてきた。
履歴書や研究業績書を送った地方大学や研究機関は約15にのぼったが、どこにも採用されなかった。
つまり、地方大学や研究機関でも、その人の研究を評価できなかったということであり、「自分の研究は、大学にはいらなかったんだな。これって、使い捨てされたのと一緒じゃないか」というが、評価できない研究は消えていくのは、一般社会では当たり前のことで、就職先を探す前に、自分の研究を社会に訴え。必要な研究と認めさせることが先決である。
世界の食糧危機を救えればと、東大で研究を始めてから15年。この間、必死に頑張ってきたのに……。
明日から、自分が打ち込むべき仕事はない。
「自分で言うのも何ですが、研究業績には自信がありました」
でも、「認められなかった。」ということは、研究成果を認めさせる努力が足らなかったのではないだろうか?
以前、ある東大の教授が、研究発表会を見てみないかと誘われ、聴講してみたが、わけの分かりにくい研究が羅列されていた。
私は教授に、「この研究発表会では、誰も資金を確保できないでしょう。わけの分かりにくい研究を誰にでもわかるように解説しないのですか?」と聞いたことがある。
教授も、「そこなんだよ!」と言っていた。
「企業が、金を出したくなる研究をすべきでしょう。」といったことがある。
朝日新聞の記事も同じである。
香港の新聞記者で、ヨーロッパに武者修行をしていた記者の条件は、「売れる記事」であった。
売れない記事では、武者修行中に餓死する。
このような記者は、いらないということである。
つまり、この記事を書いた人は、いらないということである。
それに気がついていないから、このような記事を書く。
これでは、朝日新聞の借金は膨らむだけである。