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とある配信者のおはなし

※創作小説
※落ち目配信者が一念発起、一発逆転を目指して治安の悪い街にレポしに行く話。
※特定の配信者を揶揄する意図はないです(念のため)
※異世界はスマートフォンと共に(風評被害)

■■■

 
「ども、ゆきまるでっす!」

 眼前に掲げたスマートフォンに向かって男は右手を軽く上げて挨拶をした。
 インカメラになっているレンズは画面上に歳を食った自分の冴えない顔と、ごみごみとして薄暗い風景を映している。

「えーとっすね……ジャン! 今日は鳴神区なるかみく に来てまーす! 前からコメ欄でね、鳴神区凸して欲しいってリクエストがね、チョイチョイあったんで……えー……来てみちゃいましたってことでね。しかもライブ配信で、下エリアの散策をしていこうかな、と」

 カメラをインカメから通常に戻すと、男はぐるりと周囲を映す。無秩序に無造作に建てられた建物や道端に積み重なる生活ごみ、午前中から酔い潰れている老人……そういう生々しい映像が男のスマホを通じて視聴者の前に提供される度にチャット欄がたくさんのコメントで盛り上がった。ここまでの盛り上がりは久しく無かったことで、男はカメラに映らない位置で小さくガッツポーズをしていた。

 ──これだよ、これ! 俺が求めていたのは!

 男の中に何とも言えない高揚感が沸き上がる。
 冒頭で【ゆきまる】と名乗ったこの男は動画配信者であった。それも、数字さえ取れれば少々過激・・・・だろうが、他人に被害があろうがいとわない、いわゆる【迷惑系】と揶揄されるタイプのだ。
 本名は安西幸彦あんざいゆきひこ、歳は三十七歳。
 今でこそ迷惑系配信者として悪名を轟かせている安西だが、何も昔からそうだった訳でもない。
 YouTubeが台頭するより以前、まだ動画配信が今ほどメジャーでなくアングラだった時代には人気の配信者だった。枠を開けばすぐに沢山のファンが集まっていた。羨望の眼差しをくれた。称賛の言葉をくれた。自分の言葉で一喜一憂するファンたちの姿に、安西は酔いしれていたし、また安西自身、動画配信に対する熱意とひたむきさが確かにあった。

 だが時代が進み、殆どの人がスマートフォンを持つようになり、その結果、動画配信の敷居が低くなったことで安西はあっという間に若い配信者たちにごぼう抜きにされてしまった。一山幾らの有象無象、昔は人気があった人、そういうカテゴリに押し込められてしまった。自分と同年代の配信者は時代についていけないことを悟り潔く廃業するか、若者の流行に迎合してそれなりの人気を保っていた。

 安西は──そんな奴らを見下した。

 自分は違う。自分は、潔い風に見せかけて逃げ出したりもしないし、低脳な若い奴らに媚びるような真似もしない。自分のスタイルを貫いてみせる。付いてきてくれるファンはいるはずだ。
 その志は立派だったが、しかし、視聴者は素直だった。数字は如実に語っていた。「お前はもう時代遅れなんだよ」と。

 コメント欄でも掲示板でも、自分について語られるのは過去の栄光と今現在の比較。
 そこから飛び出す「昔は面白かったのに」「今はもう見てられない」「オワコン」「イタイおじさん」等の、屈辱的な言葉の羅列が安西を苛立たせた。

 しかも最悪なことに、その言葉を証明するかのようにチャンネル登録者数は増えるどころか目に見えて減っていった。かつては二十万人近くいた登録者数が十万以下にまで減ってようやく、安西は自分の置かれている状況を理解した。それどころか、かつて自分が底辺だと小馬鹿にしていた配信者がいまや国民的人気配信者にまで上り詰めている。恥を偲んでコラボの依頼をしてみたが、相手はにべもなく断ってきた。

『ゆきまるさん僕のことずっとバカにしてたじゃん、それを今さら無かったことにしてコラボしましょうなんて都合良すぎと違いますか?」

 どんなに丁寧に動画を作り上げてアップしても視聴数は稼げず、登録者も減っていった。そうなると収入にも障りが出てくる。日雇いの稼ぎと貯金を切り崩してなんとか生活していた。そんなドン底の状況に置かれていたとき、もはや理由すら忘れたが、他の配信者からコラボ依頼があった。
 聞いたこともない名のチャンネルだったが安西は承諾した。
 DMを返すと、相手もすぐに返信をよこしてきた。やり取りはスムーズに行われ、配信当日。指定された場所に行くと待ち構えていたのはいかにも浅薄そうな若い兄ちゃんだった。捻れた癖毛を金髪に染め、耳や顔面の至るところにピアスをあけて、ダルダルとしたルーズな服を着ていた。

「ゆきまるさんスか? んじゃ今日はヨロっス」

 ヘラヘラとしながら手を差し出す相手が、安西は不愉快で仕方がなかった。最近の奴は口の利き方も知らないのかと思ったところで、自分が散々バカにしていた【老害】どもと同じことを考えていることに気が付き、もっとイヤな気分になった。叩き落としてやろうかと思っていた手をグッと握る。にっと笑った相手の口許から覗く前歯は欠けていた。

 そして枠が開かれいざ配信が始まってみると、コラボとは名ばかりの吊し上げだった。
 いかに自分が時代遅れなのか、相手が優れているのかを延々と語られ面白おかしく道化の役を押し付けられて、最初は耐えていた安西もついにはキレた。

「ふざけんな! たかが十万程度の登録者数でイキってんじゃねえよクソガキが!」
「あ? サーセン、キレちゃいました? でも《《おじさん》》は今の俺より登録者数少ないっしょ。そんな怒鳴んないで下さいよ~。結局この世界は数が全てなんスよ、あんたに物言う資格はねーんだって。いつまで過去の栄光にすがってんスか? 見てて痛々しいんで、今日で引退しちゃどうっスか? 俺がインドー渡してやりますよインドー」

 過去の栄光にすがってる。
 見てて痛々しい。

 それは、ある種の正論ではあったろう。
 安西自身、自分を俯瞰したときに頭のどこかで感じていた事だった。
 だが、全盛期の自分すら知らないようなクソガキに煽られプライドを酷く傷付けられたことに安西は激昂した。相手のヘラヘラ顔に拳を叩き込む。配信中だということも忘れて暴れまわり、通報を受けた運営によってその回は強制終了となった。

 この件で安西は暴行罪でお縄になった。
 相手もわざとらしい包帯まみれの姿で動画を撮り、安西を訴えると息巻いていたが間に入った弁護士が有能だったからか裁判にまでは至らず和解で済み、被害届も取り下げられたからどうにか前科が付くことはなかった。

 逮捕されたことよりも、それなりに高額な和解金を払ったことで貯金が底を付きそうなことよりも、安西が恐れていたのは視聴者数の激減であった。
 ただでさえ落ち目の配信者が、若者の挑発に乗ってカメラの前で醜態を晒したのだ。きっと皆呆れ果ててチャンネル登録を解除しただろう。「こいつはもう駄目だ」と、そっぽを向いたことだろう──

 しかし、恐る恐る自分のチャンネルを開いた安西は別の意味で目を丸くした。
 登録者数は減るどころか増えていた。過去の動画の再生数も尋常でなく伸びている。
 一体何が起きているのだとコメ欄やDMを確認すると、そこには励ましや応援のメッセージで溢れかえっていた。

 ──ゆきまるさん、今回の件は災難でしたね。暴力はいけないことですが、アレは仕方なかったと思います。
 ──あの配信者嫌いだったからメッチャスッキリした~!
 ──例の配信観てこのチャンネルに来ました。これからも頑張ってください!
 ──久々に面白かった

 暖かみの溢れるメッセージ群に安西は泣いた。
 まだこんなに自分を見てくれている人達がいる、自分は存在していていいんだ。
 一頻り感動しメッセージを眺め返しているとき、ふととある文面が目に映った。

 ──つか世の中、あの配信者みたいに勘違いしてイキってるバカばっかなんでゆきさんそういう奴らに現実叩き込んでやってくださいよw

 安西の新しい路線が決定した瞬間であった。

 それからというものの安西は新しく開設したチャンネルにて、【世の中のバカ】を呼び出してはカメラの前で正論で扱き下ろし叩きのめした。時には視聴者からのタレ込みもあった。その中には明らかな私怨でしかない物も混じっていたがお構い無しに。

『SNSで騒ぎになったパクり絵師を呼び出して説教してみた』
『男を取っ替え引っ替えの勘違いブスに制裁』
『【証拠動画アリ】過激苛めの主犯を呼び出して逆に苛めてみた』

 新作をあげるたび、それを観た視聴者は安西を称賛し持ち上げた。再生数もすぐに何十、何百万と回転し、掲示板やまとめサイトや個人ブログ、SNSでも取り沙汰されて話題になった。
 中には安西とその信者を嫌い悪く言うような輩も当然いたが、すぐに封殺された。

『この世界は数が全て』

 かつて自分を踏み台にしようと画面の前でこき下ろしたあの金髪の配信者の言葉を改めて思い出す。
 確かに紛れもない事実だ。数はそのまま戦闘力で、数字が大きければ大きいほど、視聴者は騙され盲信する。たとえ自分が何か間違ったことをしようとも、庇って盛り立ててくれる!

 安西は再び訪れた最盛期に酔いしれた。
 信者が自分に何を求めているのか分かったし、また逆に信者を良いように操作する方法も心得ていた。自分を嫌う者、アンチは信者を扇動して潰した。誰も安西に文句を言えない、間違いを指摘できない王国を作り上げて王として君臨し好き勝手に振る舞った。
 自分をディスった配信者の自宅を特定して庭に生ゴミを放り投げ、挙げ句のはてにはモザイクなしで自宅周辺と家族を映したり、若い女性配信者をゲストに呼んで卑猥な言葉を投げ掛けて泣かせても信者は喜んで安西を誉めた。

「俺が世の中を教えてやってんだ、おう、社会に出たらこんなもんじゃ済まねえぞ」
「どうせ化粧取ったらクソブスなんやろ? 男手玉に取って悪女気取り乙です!」

 過激であれはあるほど良い。
 日常に晴らせない鬱憤を抱えている人間は、自分が過激に世直ししている姿を見て感動するのだ。

 次第に安西の行動は過激を通り越して身も蓋もないものへと変化していった。

 道端の地蔵を蹴倒す、無免許運転しながら配信する、街中で女性に声をかけて容姿をジャッジする、店内で会計前の商品をバレずに食べる……等々、マトモな倫理観のある者から見れば幼稚で顔をしかめかねない行動も、信者たちは無責任に持ち上げ誉めそやし、反論があればすかさず叩き潰した。

 こんなことばかりしているから、当然、警察沙汰に何度もなった。逮捕され何回かは実名報道され、世の晒し者になった。ワイドショーで芸人崩れのコメンテーターが安西の動画を鼻で笑った。

「自分が面白い人間だと信じて疑わない幼稚な人なんですよね。イイ歳して学生時代のノリを悪い意味で引き摺ってる、承認欲求が肥大化した可哀想な人だ。早く現実を受け入れてマトモになってほしいですね」

 安西と信者はその芸人へ誹謗中傷を繰り返しまくり、殺害予告を送りつける者まで現れた。騒ぎをおさめようとした芸人は自身の発言が行きすぎていたと謝罪し、安西はそれを受け入れて許してやるという体でようやく沈静化した。

 この時期の安西は確かに王様だった。

 しかし、再び時代の潮目は変わった。
 社会的規範を尊び、自他に潔癖であることを求める層がネットの世界に大量に流入してきたことで、安西のような過激なことを面白いと思う人間は迫害されつつあった。いや、過激なこと=面白いという思い込みを持つ者はまだ確かに存在してはいるが、その清廉潔白な人種から、良くも悪くも目立っていた安西は目をつけられて叩きのめされた。何よりも、信者に怪しげな情報商材を売り付けて詐欺容疑で逮捕されたのがトドメとなった。

 ──ただただ不快
 ──つまらない犯罪者
 ──こんなの面白がってるのはこのおっさんと同じ底辺の人間でしょ

 こうなってくると信者も無責任なもので、あっという間に手のひらを返し安西を見捨てて叩く側に回った。

 ──ぶっちゃけここ最近はちょっとやり過ぎな回もあったよな
 ──この間の配信はドン引きした
 ──お前らが適当に持ち上げるから勘違いしちゃったんだろ。責任取れよ

 元々、瓦礫の上に建っていた王国だ。崩れさるのも早かった。
 今度こそ安西は世間から見放された。本当に【オワコン】の烙印を押されて見向きもされなくなった。あれだけいた信者も離れていき、今現在残っているのは、登録解除すら面倒がる物臭か、安西と同様に価値観のアップデートが出来ていない時代遅れの手合いか、ヲチ目的の野次馬のみだった。

 動画配信で飯を食っていくのも困難になりつつある。
 気がつけば自分はもう三十七で、本来ならマトモに働いてそれなりの役職に就いていてもおかしくない年齢だ。にもかかわらず、安西は今さら真面目に就職するきもなかった。自分より年下の人間にへりくだることが、プライドの高い安西には苦痛なのだった。

 どうにか起死回生の方法を探っていた時だった。

『りんちゃんねるのりんです! 今日は前からリクの多かった鳴神区に来てみました~!』

 何とはなしに流していた動画だった。
 流行のメイクとファッションをした若い女配信者が甘ったれた声で喋っていた。背景には鳴神区の繁華街が映っている。

 トウキョウ湾のど真ん中に浮かぶメガフロート──通称【鳴神区】。
 観光地として知られるこの場所は、同時に妖しい魅力のある魔都でもあった。各国のアウトローがビジネスの場として集合し、カジノや売春、はては違法ドラッグや武器の売買でさえ合法とされている。そんな鳴神区探訪は確かに人気のコンテンツだった。行ってみたくても真偽不明の噂に二の足を踏んでしまう人々が喜んで視聴するのである。

 安西は無意識に身を乗り出していた。

『今日は、主に中央エリアの繁華街を見ていこうと思ってま~す……え? 下エリア? うん、それがね? 事前に問い合わせてみたんだけど、危険だから止めた方が良いって言われまして~……そもそも撮影禁止エリアということなので、ハイ。ごめんなさいね。その代わり、中央エリアにも結構怪しいお店があるみたいなので、そういう所にも行ってみよっかなって』

 これだ、と直感した。
 
 鳴神区探訪、それもまだ殆ど誰も成し遂げたことのない下エリアの様子を配信すれば、きっとまた話題になる。そうすれば去ったファンどころか新規の客層を獲得することが出来るかもしれない。そうだ、所詮女には出来ないことを俺がやってやる。格の違いを見せつけてやる!──

 そういう経緯があって、安西は鳴神区にやって来ていた。

「じゃ、早速ね。一通り見ていきましょうかね」

 スマホを掲げたまま、安西は歩き出した。
 事前にネットの記事や画像検索で下エリアの様子を調べてはいたが、実際に目の当たりにすると少し気後れしそうだった。まだ時間は午前中で天気も良いはずなのに、下エリアは薄暗い。頭上高くに飛び出すトタン屋根の端っこや、複雑に絡み合った謎の配線、無造作に干されている洗濯物のせいで日が遮られているせいだろう。
 道端にはゴミや露店などが無秩序に散乱し、そこかしこに違法な増改築を繰り返された建物が建っていて、昔に図書館で見た九龍城砦の写真集をボンヤリ思い出させた。

「いや~凄いですね、噂以上のとこですわ」

 いま撮しているのは様々な店が通路の両サイドに並んでいる、いわゆるアーケード街だろうか。エプロンをつけた中年の女が立つ店先にはフルーツが並べられている。

「こんな場所で食いモン買う人っているんですかね、何か腹とか下しそうですけどね」

 安西の嘲笑混じりの言葉を聞き止めて、周囲の人間は顔をしかめたがすぐにまた客の呼び込みや応対に戻った。

 アーケード街を抜けた安西は路地裏を映す。
 やはりゴミが散乱していた。空き瓶や錠剤のシートに混ざって正体不明の物まである。その路地の奥に怪しげな人影が複数動いているのを認め、安西はすぐさま近くまで寄った。チャット欄も盛り上がっている。

「……何してるんですかねアレ? ヤバい現場っぽいけど」

 スーツの男とロングコートの男が向かい合わせになっていた。何か密談をしているようだが、ここからではその内容までは分からない。「もうちょっと近くまで行ってみて」とういうコメントが幾つか流れてきた。その要望に応えようと爪先を踏み出そうとした時──

「何をしている。どこから入り込んだ?」

 ぐいっと思いきりシャツの首根っこを掴まれ後ろに引っ張られた。

「ぐ、ぐえっ」
「質問に答えろ」

 相手は思いきり掴み上げているらしく首が絞まっていた。息も絶え絶えになりつつどうにか首を振り返らせると、まず、傷だらけの手が目に入った。腕まくりした肘から指先にかけて、大小様々な傷が埋めている。これだけで相手が只者ではないと察せたが、同時に、視聴数の稼げそうな現場に出会したのだと顔がにやついた。

「……何笑っているんだ? 私の質問に答えろ」

 壁に向かって投げ出され尻餅を着いた安西はゲホゲホ咳き込んだ。

「その手に持ったスマートフォンは何なんだ?」
「あ、いや、その」

 答えるよりも早く、相手の男の爪先が安西の手からスマホを蹴り飛ばしていた。地面を回転しながら滑って、離れた場所にぶつかった。壊れていなければ良いがと目線をやる。

「どっ、……いや、観光で来たんですけど迷いこんでしまって」

 動画配信者であることは伏せて、安西は視線をスマホから自分を襲った男へ向け息を飲んだ。
 男は明らかに堅気の雰囲気ではなかった。そりゃ、こんな所にいて、不味い場面を見られたと判断し安西を襲ってきたのだから当然と言えば当然だが。
 
 男は白いワイシャツに黒いネクタイ、黒いスラックスに革靴と、まるで葬式帰りかのような格好だったが長めの前髪の下の眼は鋭い。分かりやすくギラついた光でなく、剣呑な鈍い光が微かに灯っている。年の頃は四十半ばくらいに見えるが、衣服の上からでも分かるほど筋肉が張り詰め上背もでかかった。

「迷いこんだだと? そんな見えすいた嘘を──」
虞淵イーユァン、何してやがる」

 更に追及しようとした男の言葉を遮ったのはロングコートの方の男だった。

「師父」

 虞淵に師父と呼びあうところを見るに、てっきり日本人だとばかり思い込んでいたがどうやら大陸の人間か。

「素人さんに喧嘩売ってんじゃねぇよ、みっともねぇ」

 師父と呼ばれた男は、面倒くさげに右手を持ち上げると蓬髪に手を突っ込んでバリボリと掻きむしった。ただ突っ立っているだけなのに、虞淵同様にどこか剣呑な雰囲気をまとっている。
 虞淵はチラと安西へ一瞥をくれてから師父へと口を開いた。

「しかし──」
「いーんだよォ、ったく……悪いね兄さん。どうもこいつは血の気が多くていけねぇや、へへへ……繁華街は向こうだよ。じゃあな」

 その場を無理やり収めるように、師父は虞淵の肩を抱き込んで路地の奥へと引き返していく。何かこそこそと耳打ちしているのが見えるが、その場に残された安西はもう追おうとは思わなかった。
 少ししてから立ち上がりスマホを拾うと、幸い壊れたり配信が終了したりはしていない。むしろチャット欄は安西を襲ったトラブルに大盛り上がりだ。

「えー……まァ、ちょっとトラブルもありましたけどね。探索のほう続けていきますかね」

 まだ内心動揺していたし、膝が笑っていた。しかし視聴者にそれを悟られないように安西は努めて明るく振る舞ってみせた。

 とりあえず、もう路地付近はウロつかない方が良いだろう。次にあの一団に出会したら本当に凹られるか、最悪殺されかねない。
 安西は素早く路地を進み、広い道路を挟んだ通りに出た。
 何か目ぼしいものは無いかと探すとすぐに【変な人物】が目についた。ひょろりと背が高く、全身を黒い衣服で包んでいる。それだけなら何もおかしなところは無いが、その人物は顔面を隠すようにベタベタと御札を貼り付けていた。

 ほんのついさっき怖い目に遭ったばかりだというのに、安西はその人物に近付いていった。

「すみませーん、ちょっとお話良いですかね?」

 
 安西に呼び止められ、男はゆっくりと振り向いた。
 顔面に貼りつけられたお札は全部で5枚、その全てに梵字かくずし字かは判然としないが赤い墨で文字が書かれている。

「何か用かな」

 予想に反してお札の男はフレンドリーな人物らしい。安西に対して警戒心をちらとも抱いていない。札の隙間から露出している唇が弧を描いた。その、男にしては紅でも塗ったような妙に鮮やかな赤い唇に、安西は一瞬ドキリとした。ただしそれは、蠱惑的というニュアンスでなく、どちらかといえば薄気味悪さに近い。例えば、仲間たちと冷やかしのつもりで行った心霊スポットで【見てはいけない人】を見てしまった時のような──

 安西はハッと我に返った。気を取り直す。

「えっとぉ、その格好ってなんかのコスプレとかっすか?」
「コスプレ?」
「今なんかそういう漫画だかアニメが流行ってるんでしょ? なんだっけ、ジュジュツなんちゃら、みたいな」
「ああ──なるほど、キミにはそう思えるってことか。じゃあそれで良いよ、そうコスプレだよ」
「は、あはは……」

 何だコイツは。

 安西は口許が引き攣るのが分かった。
 随分と芝居がかった言い回しで喋る男だ、オタクだろうか。あいつらはよくネット上でキャラクターの台詞を引用して何かを言った気になったり、ひどいとなりきりごっこ遊びに興じている気持ちの悪い人種だし。
 お札男はニヤニヤしている。
 今すぐこの場を立ち去ってしまいたい所だが、リスナーたちはもっと話しかけろと囃し立てている。
 仕方なくインタビュー・・・・・・を続けることにした。

「えー、実は今、動画の配信中でして~」
「動画? その低スペックのスマホで?」
「は──あ~、まァ、まァ……ライブ配信するならこれくらいでもね、充分なんで」
「なるほど。キミは自分の身を弁えているんだな」

 恐らく相手に悪気はないのだろう。吐き出される言葉に棘がない、心に思ったことをオブラートに包まずに吐き出しているに過ぎないのだ。安西とて相手の好悪を読み取る程度のことはできる。できるが……。

「は、はは……あんた面白いねー……」

 内心でグラつく怒りを抑えてそう言うのが精いっぱいだった。
 配信中でなかったら殴りかかっていただろう。スマホが最新のものじゃないくらいなんだと言うんだ。確かに安く買った型落ちだがなにも難儀などしていない。実際こうやって配信も問題なく出来ている。
 コメントは安西の気などお構いなしで大ウケだ。それを見てまた頭に血が上る。

「ま、じゃあ、お邪魔しちゃ悪いんでね」

 ──もっと話しかけてよ
 ──もしかしてビビってんのか?w

 お札男の前から立ち去ろうとする安西を揶揄するコメントがずらずら流れてきた。
 ビビってる、腰抜け、口ほどにもない、やっぱ年食ったから丸くなったな──
 カメラに映っているのも忘れて舌打ちをした。そりゃお前らは画面の向こうで観てるだけだからなんとでも言えるだろうよ。

「時間が限られてますんでね、サクサク行かないと」
「ちょっと待て。折角こうして会えたのも何かの縁だ、僕がキミの近い未来を視てやろう」
「はあ……」

 立ち去りかけた腕をグッと掴まれていた。
 未来を視る。もしかしてこの男は占い師か何かなのだろうか。だとすればこの奇天烈な格好にもまァ納得が行く。

「じゃあよろしくお願いしますよ、あ、まさか法外な値段吹っ掛ける気じゃあないでしょうね~?」
「金銭は不要だよ。興味もない」
「……」

 イチイチ鼻につく男だ。安西は顔を歪める。さっさと適当な占い結果でも聞いて立ち去ろう。占いといえば、学生時代に、やっぱり街中で薄汚い老婆に持ちかけられたことがあったのを安西はふと思い出した。手相占いだった記憶がある。得体の知れないババアのしわくちゃの手に手のひらの線を撫で擦られる感覚が気持ち悪く、解放された後にしこたまゲロを吐いたことしか覚えていないのだが。

 そんなロクでもない記憶をボンヤリ反芻していると視線を感じた。顔を上げる。お札男が、札の隙間から金色の眼をぎょろつかせて自分を眺めている。ヒッと短く息を飲みこんだ瞬間、金色の眼がにや~っと厭な笑いに歪んだ。

「片腕の者に気をつけることだな」
「か、かたうで……?」

 どういう意味なのだろうか。カタウデノモノ。片腕の者? 少なくとも身内や知り合いにそういう人物はいない。思い当たる節がない。多くの他者を傷つけて踏み台にしてきた自分でも、肉体的な怪我をさせた相手はいない、筈だ。しかも腕を失うような?

 気味の悪い託宣の続きを待ったが、お札男はそれ以上は何も言わなかった。とっくに安西に興味を失ったように置き去りにした。目の端で、チャット欄に大量のコメントが流れていくのが見えた。中には何かネット記事のURLのようなものもいくつか見えるが確認する気にもならなかった。
 
「いっやぁ……変な人でしたねっ! やっぱ鳴神区はただならない場所ですね~。さ、気を取り直して別のとこ行ってみましょうか?」

 気分を切り替えようとして安西は無理やり明るい声を出す。さっきの薄気味悪い男とは反対の方向へ進む。

「話によると、下エリアは奥に行けば行くほど複雑な地形になっちゃってるようなんですが……」

 今いる場所は比較的開けて見通しの良い区画だ。
 リスナーが求めているのはそんじょそこらではお目にかかれないような生々しい映像だ、自分よりも底辺の暮らしをする人間だ。

 自分のチャンネルを楽しみに観ているようなのは、世の中に対して両手で抱えきれない程の不満を抱いている底辺の負け組ばっかりだ。楽しいことだってささやかながらあるはずなのに、そんな物には目もくれずに自分よりも幸せそうでいい暮らしをしている奴らを目の敵にして、隙あらば足を引っ張り叩きのめそうと虎視眈々と狙っているルサンチマン共だ。自分が損をしてでも他人に得をさせたくない、例えそれが自分の知らない誰かだったとしても。

 まだ安西が【迷惑系】に落ちぶれず、少なからず【世直し系配信者】として振る舞っていた頃、私怨まみれの依頼がたくさん来た。

『あの男は自分の彼女よりもはるかにイイ女と付き合っている。噂では裏で彼女を脅して従わせてるらしい』だとか、『あのバイトは仕事も出来ないのに自分より時給が良いのが許せない、店長の愛人だから威張っている』とか……

 目に見えて分かる嫉妬だったが、ネタ切れとマンネリもあって、何度か配信で取り上げてみようかと試みたことがある。だがしかし、事前調査をしてみると【悪いヤツ】だと名指しされていた者たちは至って平凡な善良な人たちだった。美人の彼女は彼の誠実な所に惹かれていたし、時給の良いバイトは色々と便利な資格を持っていて人一倍働き者の社員だった。むしろ、告発してきた側の方が怠惰で愚かで嫉妬深いツマラナイ人間だった。

 そして、自分はそんなツマラナイ人間たちに持ち上げられているのかと思うと惨めだった。
 時代の波に乗り切れずに界隈から身を引いた連中を見下していたが、本心ではその潔さが羨ましかった。
 自分に小馬鹿にされながらも地道に活動を続け、いまや国民的人気配信者になったアイツが眩しく妬ましい。
 潔く身を引くことも、地道に誠実に活動を続けることも出来ず楽な方に流されて、流れ着いた果てに残ったのは歳だけ食った自分と、自分を利用してルサンチマンを晴らそうとする衆愚だけだった。

「おっ、ヤンキーだ」

 周囲の風景を適当に映していると、対面から黒いジャージの少年が気だるげに歩いてくるのが見えた。すかさずそっちへスマホを向ける。

「トウキョウじゃあまり見かけなくなりましたけどね、やっぱ鳴神区にはいるんすねぇ」

 かつては本土の方でもこの鳴神区に負けず劣らず暴力団や不良少年たちが幅を効かせていたが、法改正で暴力団に対する締め付けが厳しくなってからというもの、そういう人種はすっかりナリを潜めていた。ごくたまにニュースなどで若者の集団バイク暴走だとか、暴力団員による特殊詐欺だとかの話を聞く程度だ。そういうゴミのような人種は全て鳴神区にひとまとめにされているのだ。

「うわ、釘バットとかいまどき逆にレアだわ、昔の不良漫画の世界観ですよ」

 少年は右手に釘バットを持って先端を引き摺っていた。カラカラと乾いた音がしている。通常、釘バットというのは木製バットに釘を打ち付けて作るものだが、少年のソレは金属バットであった。それもかなり年季が入っているように見える。釘やバットの表面に赤い錆びが浮いている。

 安西はこの少年にインタビューを試みた。
 リスナーの大半は学生時代の怨恨からヤンキーや陽キャを目の敵にしている。
 無論、この少年は陰キャのいじめられっ子リスナーとは何の関係もない第三者なのだが、そんな仮想敵であるヤンキー少年をおちょくってみせれば拍手喝采で喜ぶだろう。そろそろスパチャも投げてほしい所だし。この回のハイライトだ。SNSや掲示板でも話題になるに違いない。

 さて、どうやって絡む切っ掛けを作ろうか──

 そう思案していると、何ともラッキーなことに向こうの方から話しかけてきた。しかも、不機嫌そうに。

「……なあ、オイ。アンタさ、さっきから何勝手に撮ってんの?」

 それは至極当然の疑問だったが、安西はあえて無視をした。自分から手を出すわけにはいかない。まずは相手に手を出させてから正論でやり返す……見た感じ頭の悪そうなガキだ、大人の語彙力で捲し立てれば余裕で丸め込めるだろうし、万が一暴力沙汰に持ち込まれたとしても、あの釘バットさえどうにか処理できれば学生時代に少しだけだがボクシングをやってたこっちが勝てる。

 まさに取らぬ狸のなんとやらであるが、安西の中でそういう計画が組上がった。

「オイ、アンタ……アンタだってば。おっさん……耳聞こえねーのかよ」

 いつまでも無視を続ける安西に、相手の少年は明らかに苛立っている。振り向きたい衝動を堪えて大量のコメントを追っていると、その中に「ソイツに絡むとヤバイ」という短文があったがすぐに上に流れていってしまった。少年の知り合いが見ているのだろうか。

 真横で深い溜め息が聞こえた。

「あのさー良い年した大人がさあ、歩きスマホとかダサいからやめた方が良いって。あとここ、撮影禁止エリアだから。立派な大人ならちゃんとルールを守れよルールを……どうせあんたもツマンネー配信者だろ? ツマンネー奴ほどここに来るんだよなァ、自分達より底辺見たさに」
「いやっ……」

 安西は思わず顔を振り上げていた。こちらの真意を見抜いたような指摘にドキッとしてしまった。
 少年の目が眇められていた。心底イヤなものを見るような、侮蔑の眼差しだった。

「別にそういう訳じゃないよ。確かに俺は配信者で……まァ、確かに最近は視聴数も落ちぎみだけどね。だからって別に底辺の暮らしを面白おかしく茶化そうとかさ、そういう訳じゃない」
「何でも良いけど、俺のこと勝手に映してんじゃねーよ。人権侵害だろ」
「それを言うならプライバシーの侵害ね」

 やっぱりバカガキじゃないか。さっきの鋭い物言いには驚いたが。
 安西は少年に対する警戒を解いた。完全に、見下すモードに入ろうとしていた。

「うるせえな、揚げ足とってんじゃねーよ。撮影禁止の場所でバカみてえな配信してる奴が物言う資格ねーんだよ」
「あのさあ、それが目上に対する態度なのか? そりゃあ確かに俺も悪いけどさ」
「は? 何で俺も悪いみたいな論調で話すんだよ。ルール違反してんのはそっちだし、そのにやついた顔が気に食わねえ」
「顔って」

 安西は指先で自分の顔を撫でる。言われるほどにやついていただろうか。顔。俺の顔がなんだって言うんだ。不細工なのは生まれつきだ、質の悪い種と畑じゃ不格好な野菜しか出来ないのは当然だろうが。
 自身の容姿に対して安西は暗いコンプレックスを抱いていた。もっとも本人はソレに気が付いていないが、
配信で道行く異性の容姿を勝手にジャッジし点数をつけるのも、SNS上で年若いモデルを品のない言葉で揶揄するのも、そういう暗い感情の発露でしかない。

 何が顔だよ。
 安西は特大の舌打ちをくれた。
 どいつもこいつも、分かりやすい見た目のよさに騙される。

 学生時代のあの女を思い出す。眼鏡をかけて地味で皆の輪に混じらず教室のすみで本を読んでいるようなダサい女だった。ちょっと目をかけてわざわざ告白までしてやったのに断りやがって。カッと頭に来て「お前みたいな眼鏡の根暗ブス女に選り好みする権利がある訳ないだろ」と怒鳴り付けたら泣き出して、そしたら、クラスでもカースト上位のイケメンがすっ飛んできて俺を殴った。言った。

「いい加減にしろよ! 山内に付きまとうな! お前、山内の家にまで押し掛けたらしいじゃん! ストーカーかよキメぇな! 俺の彼女を泣かせんじゃねぇよ!」

 野球部のキャプテン、エースが、なんでこんなブスとわざわざ。球っころの追いかけすぎで脳がおかしくなって女の顔も分からなくなったに違いない。

 会社勤めしていた頃の後輩。
 若い女配信者。

 最初の頃は俺に良い顔をして期待させておいて、いざとなったら手のひらを返し、罵倒し、拒否し、汚物でも見るような目で見てくる。どいつもこいつも、ちょっと見目の良い雄の前では雌の顔になる。山内美沙もだ。カースト上位のイケメン彼氏に肩を抱き寄せられながら頬を赤くしていた。

 忘れたくても忘れられない忌まわしい記憶が勝手にフラッシュバックしたせいで、安西は吐きそうだった。
 目の前の少年を改めて見る。肌が白く整った顔をしている。よく見てみると、目が微妙に青みがかった灰色をしていた。ちくしょう、さぞや女にモテるんだろう。身なりを整える経済的余裕もあるんだろう、ジャージとはいえそれなりに値の張るメーカー物だし、髪も黒髪に金のインナーカラーを入れている。ちくしょうが、こっちは新しい服なんてめったに買えないし、髪だって千円カットだっつうのに。

「……とにかく、これはエンターテイメントじゃなくてジャーナリズムだからね。ジャーナリズム。国民には知りたいことを知る権利があるんだよ、君にはちょっと難しいと思うけど」
「ジャーナリズム?」

 少年がはっと鼻で笑った。

「そういう風にお題目唱えながら正式な手続きも取らないでココに来た奴らにロクな奴はいなかったよ、そんなスマホ一台で何が伝わるんだか。随分と安っぽいジャーナリズムだな……まァいいや、警察がすっ飛んでくる前にどっか行った方がいいよおじさん」

 少年はもう安西と不毛なやりとりをする気は失せたらしい。この場から離れようとしている。
 しかし安西の気は済まなかった。なんとしてでも配信の見せ場を作りたい……いやそんなことよりも、自分を軽んじた少年が許せなかった。ガキのくせに、大人を馬鹿にしやがって。もはや配信の事など脳内から吹っ飛んでいた。プライドの問題だ、最近のガキはつけあがっている。大人を舐めている。

「あのさあ、まだ親の稼ぎで食わせてもらってる分際でそういう態度はいただけないなあ。どういう教育されてんの? 親の顔が見てみたいね」
「……そうかよ、見せれるもんなら見せてやりたいけどね」
「大体さあ、君、俺が誰だか分かってる? まァ知らないかあ、最近の子は。無知だからな。俺、ゆきまるっていうんだけどね。君や君のお父さんなんかよりも遥かに稼いでる訳。分かる? こんな場所に住んでる君たちよりもさ、はるかに良い暮らししてんのよ」
「……ゆきまる・・・・?」

 その名を聞き少年は眉間にしわを寄せた。何かを思い出すように額に触れている。
 「元」とはいえ人気配信者だ、ネットをやっていればさすがに名前くらいは知っているか……安西が内心で勝ち誇ったその時、フッと頭上に陰が差した。
 なんだ、急に。ただでさえ薄暗い場所だっていうのに──

「うおおおおおっ!?」

 頭上を見上げた安西は叫びながら身を捩った。間一髪で、自分の真横すれすれを釘バットがかすめてアスファルトの地面を叩き付けた。あのままマヌケに突っ立っていたら確実に頭を割られていた。

「な、な、なん……お前頭おかしいんじゃないのか!」

 恐怖と怒りとで呂律が回らない。
 いくらなんでも躊躇なくバットを振り上げてくるとは思わなかった。

「思い出したんだよなあ~……なんかその名前聞き覚えあると思ったら、アレだよ。転売屋じゃん。お前のせいでこの間フィギュア買えなかったんだよなあ~……」
「……は? 転売、フィギュアって」
「そうだよその顔も見たことあったわ。ネットで晒されてたもんなあ、クソが。テメエのせいで買えなかったろうがよ! エンジェルリリィの数量限定フィギュア! わざわざアキバ本店まで買いに行ったのによォ~!」

 最初、目の前の少年が何を言っているのかさっぱり分からなかった。が、すぐに思い出した。
 確かにこの間、何だか分からないがオタクに人気のあるアニメキャラの数量限定フィギュアを買い占めた。転売のためだ。生活費を稼ぐのに安西は転売にまで手を出していた。どんなに法外な値段をつけようとも、馬鹿なオタクは金を払うからだった。そのことをSNSやDMで咎められても反省するどころか逆に煽った。

 ──転売の何が悪いんだ。経済回してやってんだ。それに欲しい人の手元に確実に届けてやっている、企業は俺たち転売屋に感謝するべきなんだ

 少年はもう一度、バットを振り下ろそうとしている。安西は不様に転がって殴打を避けた。

「お、落ち着けよ……たかがあんなキモい人形くらいで」
「はあ? どの口が言ってんだよどの口が!」

 地べたに這いつくばっていた格好の安西は素早く立ち上がると、まずスマホを壁に立てかけた。万が一、あのバットに叩き壊されてしまってはたまらない。さりげなく二人の全身が入るようなアングルに調整する。

「そっちがその気なら、こっちもそれなりの手に出るけど?」

 そういって握った拳を体の前に構えステップを踏む。ボクシング。もう長いことやっていないが体は覚えているはずだ。ガキ一人叩きのめすには問題ないだろう。

「何それボクシングのつもりか? 全然構えがなってねえんだよ、俺の尊敬する人は構えただけで相手をビビらすけどな」

 健気な虚勢を張りやがる。
 安西はひゅっと呼気を鳴らして拳を打った。もろに少年の顔面を狙って。しかし、その打ち出した拳は、バットを捨てた少年の右手にいともたやすくいなされた。驚く声を上げる暇もなく右足を踏みつけられる。顎に凄まじい衝撃を受けた。脳が揺れる、視界がぐるりとして立っていられずにその場に尻餅をついた。

 中国拳法、か。

 不良崩れだと思っていたガキは、思いのほか格闘技に精通していた。画面の前で叩きのめそうとしたら逆にやり返された。ただそれだけの話だ。それだけの話だが、カメラの前で無様を演じさせられたというのは安西にとって実にのっぴきならない問題であった。

 少年はバットを拾い上げて今度こそ去ろうと背を向けていた。
 安西は手元の手ごろな大きさの瓦礫を拾うと、まだふらつく足で立ち上がった。クソ、クソ。許せねえガキだ。ブッ殺してやる! 瓦礫を握る手を、少年の後頭部に向けて振り上げた。が。

「はいストップ。ストップねお兄さん」
「なっ」

 背後からその手首を握られ阻止された。首だけで振り向く。大柄な制服警官が、実に面倒くさそうな顔で自分を見下ろしていた。

「離せ! クソ!」
「離せじゃないんだよ。下エリアで動画配信してる奴がいるって通報が複数あったから来てみれば……こりゃ暴行未遂で現逮かな」
「ふざけるなチクショウ! 俺は何もしてねえ!」
「じゃあその手に握った瓦礫はなんなの」
「こ。これは……」

 安西は言葉に詰まった。未遂とはいえ、少年に振り下ろそうとしていたのは紛れもない事実である。
 その少年本人は一メートルほど離れた場所で立ち止まってこっちをじっと見ている。安西は吠えた。

「見てんじゃねえよクソガキがァ! オイ、俺を逮捕するならあのガキもしょっ引けよ! 俺はあいつに暴行されて……」
「あーはいはい。あの子は良いの。あの子は別の刑事さんが話聞くから……とりあえずお兄さんは交番までついて来て。聴取するから」
「クソ……!」
 
 
 ■
 
 
 結局、連行された安西が解放されたのは日が暮れきってからだった。少年側も手を出したということで逮捕にまでは到らず厳重注意を受けただけで済んだ。

 交番から出て繁華街を通り抜けながら、鳴神区なんぞに来るべきではなかったと安西は心底後悔していた。ここに来れば何かが変わるんじゃないかと漠然と思っていたが、そんなことは何もなかった。もう二度と来ない、こんなごみ溜めには。

 安西は今また下エリアに向かっていた。あの時、警官に半ば無理矢理連行された時にスマホを置きっぱなしにしてしまったことを思い出したからだ。
 街灯がまばらな暗い道を記憶を頼りにして進む。たしか、然程奥には行っていなかったはず……「お」

 見覚えのある路地が見えた。
 広い道路を挟んだ街路、その先を少し進んだ場所だ。

「まだあるかな……持ってかれてねえといいけど」

 独り言を呟きつつ現場に向かった。立てかけた壁にスマホはなかった。

「あー……最悪だ……あの後持ってかれちまったか……」

 なんとなく予想はしていたが実際に無くなっていると脱力した。名残惜しく周囲を探し回るもやはりない。諦めるか。中腰になっていた体勢を戻そうとした安西の目の前に、ヌッとスマホが差し出された。見慣れたその型落ちのスマホは確かに自分の物である。

「これ、お探しでしょう?」
「あ……ああ……?」

 どうやら親切な誰かさんが拾っていてくれたらしい。ありがたく受け取ろうとして、しかし、手が止まった。
 たとえ拾ったのだとしても何故警察に届けなかった? 落とした本人も気が付かないと可能性もあると思わなかったのか? そもそもこいつは何でタイミングよくこんな場所に……

「多分、来るだろうと思って待ってたんですよ」

 安西の心を読んだかのように相手は言った。男の声だ。

「これ大事なものでしょう? これがなくちゃ動画配信できないですもんね、こんなふうに」

 安西の手にスマホを持たせると、男の指が画面上を滑ってライブ配信アプリのアイコンをタップする。慣れた手つきで配信準備を進めていくのを安西は何故か止めもせずに眺めていた。指がカメラのアイコンをタップするとライブ配信が開始になった。

「お、おい、あんた何を」
「お前、昼間に路地裏で見ただろ?」
「は──」

 昼間。路地裏。
 あのことか、スーツの男とロングコートの男の密談。

「い、いや、俺は何も」
「あの時、虞淵に始末されてた方が良かったのになあ。虎明フーメイのヤツ、あの場所を指定したのはオレなんだからオレが始末つけろなんて言い出しやがって。ところでお兄さん、籤は好きかい? 引いてくれよ」

 瓢げた口調に反して有無を言わさぬ強引さがあった。目の前にいつの間にか差し出された籤。短冊状に切った紙に言葉が書いてあるアレだ……安西は恐る恐るそれを一枚引いた。

「何が出た? アッふーん……【ネックレス】か」

【ネックレス】。何でもない単語だが、今ほど恐ろしく感じたことはない。【ネックレス】が一体なんなんだ?

「配信映えしそうなモン引いたじゃん。さっすが、元人気配信者~! 持ってるねえ~!」
「あ、は、はは……」

 無意識に笑いが零れていた。
 だから【ネックレス】ってなんだよ!!

 がぼりと首にがかけられた。やけに重量がある。それにゴムの匂いに混じってガソリンの匂いもする……
 安西の手からスマホが取り上げられると、男はそれを片手・・で器用にスタンドにセットした。カメラはインカメになっているのかゴムタイヤを首にかけた自分を映し出している。なんだかとぼけたマヌケな姿に見えた。

「はーいそれじゃあ今から元人気配信者ゆきまるくん一世一代の拷問ショーのライブ配信を始めようと思いまーす。ご興味のある方は是非ともね、彼の雄姿を見てやって……おっ! スパチャありがとーございます!」
「オイ、待てよ……何のつもりなんだ? ふざけるのも大概に」

 ぼっという音と共に炎が燃え上がる。
 炎に照らされた男のシルエットには片腕がなかった。中身のないスーツの袖が微風を受けて揺れていた。あの時のスーツの男だった。そして、お札の男に言われた【カタウデノモノ】。
 真っ赤に燃え盛る炎が目前まで近づいてくる。安西は悲鳴を上げた。


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