#16 まよなかの沿道
どうして真夜中がこんなに自分にしっくりくるのか、心地いい夜の外にその理由をみる。
隣の区へ引っ越した。
ここは色々な香りがする。
新しいものも古いものもたくさんある。
10年くらい前に書き出した、
「トロイメライ705」という小説。
フィクションとノンフィクションの境界が混ざった世界。
自分の幼少期の視界を色濃く反映したその小説を書き進めるうちに、
私は自分の生まれた海辺の町に強く依存した。
私の中に対人的な思い出は蓄積されにくい。
景色や音楽や湿度、アーティストのアンニュイや幻想の輪郭ばかりが募っていく。
引っ越しは何度もしているけれど、
海辺の町を離れたことはなかった。
ここを離れたら、私は創作の軸をきっと失くしてしまう。
そんな風に思えて仕方がなかったから。
でも離れてみて1週間が経ち、
頭に浮かんでくるのはトロイメライ705の欠片ばかり。
理科室の窓からこちらを見おろす君の姿や、
踊り場に反響するピアノの音。
あなたを守った彼が書いた児童文学と、
バスタブで眠る少女の長い絹糸の御髪。
依存する心が、物語のその先を書けなくさせていたのかもしれない。
この場所からあの頃みていた景色がよく見えてくる。
離れたからこそ分かるものがあった。
時間を切り取り、閉じ込めてしまいたかった。
記憶の剥製を作ることこそが、自分の創作の真実なのかもしれないとさえ思う。
でも、変わらないものを守り続けるためには
私自身が変わり続けなければいけない。
変化を拒んでいるだけでは、大切なものさえ醜くなって触れていた指先から腐り落ちてしまう。
そのことをすぐに、忘れてしまうから困るんだ。
***
この町の夜は色々な香りがする。
懐かしい匂い。
心が呼応するような新しい風。
眠っている踏切を越えて、どこまでも真っ直ぐな沿道を歩く。
新しい音楽を聴きながらこのままずっと歩いたら、夜の端にたどり着けそうな気もする。
明るくなるまでに帰ろう。
物語の次のページをめくって、新しい季節を迎える。
受け入れる、そして夏がはじまる。