美の哲学 vol.2
記事『美の哲学』では主に最近のSNS内に多く見られる写真投稿の、ナンセンスな署名(ウォーターマーク)について私の見解を述べてみた。
記事を読まれた方、特に日頃SNSに頻繁に写真投稿をしているユーザーの中には、ご自身のことを指摘された…と言う認識を持たれた方も多かったと思う。
それはある意味執筆者の狙い通りとも言えるが、少なくとも該当記事にコメントを書かれた方を当事者とは私は全く思っていないので、そこは誤解がないように先に触れておきたい。
実は、これは皮肉なことに、類似品が現れない作品はその独自性が意外に災いし、売りの点では一歩二歩出遅れると言うデータもあるようだ。
つまり類似品が多く出回ることによりその原作品に対し多くの人たちが興味を持つことも又然り、その意味では私 ディディエ・メラの作品には活動開始から6年が経過しているにも関わらずコピーが出て来ない為、まだ広い普及には至っていない。
人は往々にして「似たもの」が周囲に溢れることで、それを潮流とか流行りであると認識する特徴があり、常に自分の思うところの類似品を比較しながら感覚を磨いているようなところがあるのかもしれない。
クセのある本物を直ぐに手にする自信がなく、比較的口当たりのやわらかな偽物に慣れ親しみ、そこからじわじわと時間をかけて周囲の目を気にしながら本物へと感性を接近させて行く。
例えば自らがまだ誰も目を付けていない本物を「良し」と感じても他に同じ感覚の人が居なければ迂闊にそれを「良し」とは言わず、他の誰かが先にそれを高く評価する状況を固唾を飲んで見守り続け、その間は何も声を発さない。
そしてある瞬間その目新しい本物らしき対象物に自分以外の誰かが好評価を口にするや否や、実は自分も以前からその対象に着目しあたかも先に高い評価を下していたようにそれを後付賛美する…。
その頃には既に本物によく似たコピーや類似品が出回り始めているタイミングで、もう「自分一人がその対象を高く評価しているちょっと変わった人にならずに済む」と言う安心感で、堂々と本物を褒めちぎるようになる。
話を戻すと、つまりは本物のような偽物が広く出回る状況が、実は本物(原作)の評判を圧倒的に高めて行くという縮図は、特に音楽や絵画、ダンスや料理、レシピ等にも顕著にみられる。
平井堅の「大きなのっぽの古時計」が流行ればそれと並行して平原綾香の「Jupiter」も流行るように、或いは小室哲哉的な作風がヒットを飛ばせばその他の全く異なる歌手もそれ風な作品を歌い始めるように、似たもの同士を並べる相乗効果で両者が競い合って売れて行くような状況は、目を凝らすと日常茶飯事起きている。
恐らくアマチュア写真家が自分の写真を誰かに盗まれまいとして非常識な程大きな文字で写真に署名(ウォーターマーク)を記入する行為も、その現象によく似ているように思う。
本物が本物であれば、それを完全に模倣することの方が難しい。
又、盗用されたもので満足する層も一定数存在することも又事実だが、そういうコピー愛好家たちは実はコピーで自分の感覚が間に合ってしまう案外チープな感性しか持ち合わせていない場合も多いので、そもそも本物をあまり必要としていないようにも思う。
そう言えば日本人に限らず海外でも「カバー」と言う形態の音楽を好む層が居て、私もかつての伴奏の仕事ではもう何百曲 - 何千曲とカバーを演奏して来た。
カバーを好むリスナーはなぜかオリジナルを聴きたがらない、これは不思議な現象だ。
同じ曲を他の複数の歌手に歌わせ、そしてその表現を競わせて粗探しをしてそれを酒の肴にして一夜を満喫する、そういうリスナー層が一定数実在する。
そういう現場では、オリジナルを扱う演奏家がとても希薄な存在と化してしまうことも多々ある。
誰もが知っている「英雄ポロネーズ」と言う難曲をあえて私にも弾かせようと、何度も懲りずにリクエストして来た人も居たが、私は頑としてそのリクエストを受け入れなかった(笑;)
彼らは「自分の身近な、お喋りの出来る間柄」の演奏家にあえて難題を吹っ掛けて、演奏家がギブアップするかヨロヨロと間違えながらその難題に取り組む哀れな姿を楽しみたい人たちで、とてもタチが悪い。
なのでその演奏家の得意な演目ではない、あえて最も苦手そうな課題を突き付けることで悦に浸ろうとする、とても厄介な存在だ(笑)。
私は常にオリジナルで勝負したいと思っているけれど、オリジナルと称するいかにもやったりげな作風でリスナーを驚かせ、困惑させたい等と思ったことは一度もなかった。
勿論今もそれは変わらず、何処にでもあるような旋律をシンプル化し、最高の音質と音色で発信することを得意技とする演奏家だ。
但しよくよく聴いてみると、多分ディディエ・メラのような作風や演奏法を実践している音楽家がただ一人しか存在しないことに、感覚の冴えたリスナーであれば気付くだろう。
進化の先頭に立つ人は常に孤独であり、最もリスキーな途を黙々と歩み続けているものだ。
誰からもその作風を真似されないことが、時に大きなリスクとなっている…等とは口にせず、幾つかの生と魂の遍歴を経て自分の作風を完成させて行くことに静かな歓びを感じながら転生し続けている。