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J. S. Bach - Lute Suite in E Major BWV 1006a - Evangelina Mascardi, Baroque Lute

バッハはとかく険しい音色で荘厳なオルガンの響きを石の壁に叩き付けるように打ち鳴らす‥ と言った印象を持たれがちだが、この動画で奏でられるリュートの「Lute Suite(リュート組曲)」は明るく暖かく、陽だまりの匂いで満ち溢れている。


「平たい顔族」の私とは違って演奏者 Evangelina Mascardi の面立ちが彫りが深く、その彫りの深さ同様にバッハに深い陰影を与え、彼女がとても良い年の取り方をしているのが分かる。
何よりバッハの解釈がシンプルで無駄な虚飾が一切省かれ、これでもかと言う程素直な彼女の表現私は大好きだ。

「過去世バッハ」の私が好評価するバッハとはどのようなものなのか、少しずつ紐解いて話して行くのも良いだろう。物事は全てがタイミングと切っ掛けで繋がっており、バッハから生まれ変わった現世の私がこうして今あらためて音楽の父を語り始めたことにもきっと意味がある。

音楽とは本来、この動画のような「陽の光のあたる場所」で奏でられることが望ましい。だがいつからか音楽は闇夜の中で演奏されるようになり、それが「音楽を愛する人 ⇨ 快楽主義者が多い ⇨ 自堕落な性格を持つ、社会からあぶれた人たちの集まり」‥ と言うような図式が世に広まり、今やクラシックを始めとする多くの音楽会やコンサート等が夜間に開催されることが当たり前となった。

そもそも「音楽」を「音を楽しむ」ことだと解釈することが、間違いの始まりではないのか‥。

音楽とは祈りであり、儀式である。

どの音楽にも必ず様式美があり、それはいかなるジャンルや表現スタイルにもそれは精通していることが望ましい。

これは軽音楽にも精通する概念であり、むしろその様式美を持たない音楽を音楽と呼ぶことに無理がある。
だが最近では音楽についての何の学も知識も持たない人たちが簡単に音楽家或いはミュージシャンになれる時代であり、肝心の音楽よりも容姿でその座に就いてしまう人たちが増えた為、音楽の世界がそうしたアマチュア・ミュージシャンに荒らされているのが現状だ。

様式美を持たない音楽はまとめて「効果音」或いは「効果音響」等と、呼び方を変えてしまえば良いのだろう。それらが仮に歌詞の付いたヴォーカル・ミュージックであっても、格式や様式美を持たない音楽に属するのであればそれはネオ・ムジーク。
本来の「音楽」とは別のジャンルにカテゴライズし、その領域に括っておくことの方が望ましい。

祈りを発信源とした音楽。
開放や発散を目的とした音楽。
社会性を重んじ、それを表現する音楽。

仮に上のどこに属するものだとしても、祈りの芯を持たない音列や和声等を「音楽」と呼ぶべきではないと私は思っている。

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それにしてもこの人 Evangelina Mascardi は、なんて美しい音色でバッハを奏でるのだろう‥。ずっと聴き続けていると、私のような穢れた人間にすら大いなる光を与えてくれる神の、勿体ない程の御心に魂が揺さぶられる。

この記事の最後に、私がとても好きなPartita in C moll BWV 997を置いて行きたい。


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Didier Merah(ディディエ・メラ)
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