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飛び出せ! 佐久間探検隊

第四十四回 上野芝で幻の古墳を探検!


ドモドモ。
佐久間探検隊の隊長、佐久間ディックです。

百舌鳥古墳群


堺市にある大規模な古墳群で、44基の古墳で構成されてます。
2019年は羽曳野市の古市古墳群と合わせ、
百舌鳥・古市古墳群として世界遺産に認定されました。
大きなのは墳丘長525メートルを誇る大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)から、
墳丘長数十メートルの小さな古墳まで様々な古墳がありますが、
「幻の古墳」と呼ばれる古墳があるのは御存知でしょうか?
探検隊はその古墳を探検すべく、
JR阪和線上野芝駅の改札を出て西出口へ向かいました。




西口へは左の階段を利用します。
窓に見えてるのは幹線道路の泉北一号線(府道34号線)。




階段はこんな感じ。
上りの一人用でもいいから、エスカレーターが欲しいなぁ。




階段を降りた先に鎮座しますは、宅配ボックス。
利用した経験はありませんが、便利そうですね。




西口に着きました。
目の前の道路はそう広くはありませんが、
結構通行量があります。
路線バスも走ってますし。
安全に注意しながら、横断歩道を渡ります。




横断歩道を渡り、左折したところです。
駅前なのでお店が並んでますね。
すぐ先の交差点を右折します。




交差点を右折したところです。
見渡しの良い道がまっすぐ通ってますね。




交差点に差し掛かりました。
駅前ほどではありませんが、通行量はそこそこ。
注意して渡ります。




交差点から少し歩くと、白い建物が。
表に掲示板がありますね。




建物は町内会の施設、上野芝町会館
提灯がぶら下がってるのは、特別警戒実施中だからでした。




上野芝町会館近くの住居表示。
堺市では大阪市とは違って、
「〇丁目」ではなく「〇丁」と表記します。

理由についてはこちらの堺市のページで解説されてます。




そして北側を向いた風景。
先で交差してる道路は、先ほどの泉北一号線(府道34号線)。
その先に見える山みたいなのは、上石津ミサンザイ古墳です。
宮内庁によって履中天皇陵と治定されてます。




駅からはそう歩いてはいませんが、
周囲はすっかり閑静な住宅街になってます。
交通安全を訴える看板が、
いかにも住宅街と言った雰囲気を醸し出してますね。




先程と同じく交差点から北を向いた風景。
履中天皇陵にある施設は、拝所の入口となっています。




そこからしばらく歩いた交差点。
目印は自転車歩行者専用道路の看板ぐらい。
うっかり通り過ぎてしまわないか注意が必要ですね。
その交差点を左折します。




左折した先にも、閑静な住宅街。
道路が碁盤の目のようなので、視界は良好です。




ここの交差点は直進します。
道の先は少し曲がってますね。




道はやがてT字路の交差点へ。
交差点を左折します。




左折した先にも、閑静な住宅街。
ここまで来ると人通りは少なくなります。




少し歩くと、小さな公園があります。
上野芝町公園ですね。




上野芝公園に入ってみました。
ベンチや遊具が備えられており、ごく普通の公園といった感じですね。
え?
「いつになったら幻の古墳に着くんですか?」って。

実はここが幻の古墳なんですよ。


というか、自転車歩行者専用道路の看板のある交差点を曲がった先、
そのあたりからずっと古墳の中を通ってた
のでした。

かつてここには百舌鳥大塚山古墳という古墳がありました。
全長約168メートル、後円部径約96メートル後円部の高さ約14メートル、
前方部幅約113メートル、前方部の高さ枠12メートルの前方後円墳で、
百舌鳥古墳群では5番目の規模を誇っていました。
築造時期は4世紀末頃と推定されます。




では何故そんな大規模な古墳が幻になってしまったか。
古墳には宮内庁が管理している古墳と、そうでない古墳があります。
大仙陵や上石津ミサンザイ古墳など大抵の古墳は、宮内庁が管理してます。
宮内庁が管理している古墳は天皇家の陵墓とされ、保護をされてます。
学術調査での発掘ですら、実質上不可能なくらいです。
学術研究の上では大きな障害ですが、古墳の保護という点では確実です。
しかし百舌鳥大塚山古墳は宮内庁が管理していない、民有地でした。
ここが百舌鳥大塚山古墳の悲劇でした。
民有地ということは近くの空き地同様、開発許可を申請すれば開発が可能
そんなバカげた事をと思う方もいるでしょうが、
保護という意識が低かった戦後すぐに開発は行われました。
開発途中の1950年に発掘調査が行われましたが、
1950年代には殆ど姿を消し、1985年の発掘調査後に完全に消滅しました。

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスには、
百舌鳥大塚山古墳が消滅する様子が空中写真として記録されています。
以下のモノクロ写真は、そちらからの引用です。
まずは1946年6月6日に撮影された写真から。
百舌鳥大塚山古墳は樹木が伐採されたものの、まだ姿をとどめています。




次に1948年9月1日に撮影された写真です。
樹木は全て伐採され、後円部南側の墳丘が破壊されてます。
痛々しい姿ですが、悲劇はこのままでは終わりませんでした




その次は1956年5月3日に撮影された写真です。
なんということでしょう。
匠もビックリです。
墳丘は完全に破壊され、見事な更地となっています。




最後に1961年6月6日に撮影された写真です。
更地には家が建ち、現在とほぼ同じ状況となっています。
古墳跡の中央近くにあるのが、上野芝公園ですね。
なお発掘調査によって鏡や甲冑など様々な出土品が発掘されましたが、
それらは堺市立博物館に保管・展示され、貴重な資料となってます




公園の一角、先程の写真で言うと滑り台の右の先あたりに、
百舌鳥大塚山古墳についての説明版があります。




案内板のアップ。
この公園がかつて古墳だったことを表しているのは、この案内板だけです。




今まで見て戴いたように、現地には古墳の痕跡はほとんど残ってません
ただ道路に後円部の一部の痕跡が残ってます
せっかくなので、そちらを訪問してみます。
案内板の隣の出口から出発します。




出口を左折します。
道幅は広くなく、車一台がギリギリ通れるかな?というくらい。




本当に閑静な住宅街です。
いま古墳跡のド真ん中を歩いていると言っても、実感が湧きません。




T字路を右折します。
交差する道は、現在いる道より道幅が広めです。




右折した先も、閑静な住宅街です。
人の行き来もまばら。




やがて道は右カーブの曲がり角に差し掛かります。
ちょうどこの付近が後円部の東端になります。




カーブを曲がると、それまでとは打って変わった空間になります。
住宅街なんですが、道が曲がったままなんです。
異様さを感じる空間でした。
かつてここは後円部だったので、道が曲がってるのは当たり前なのですが。




カーブはさらに続きます。
ふと思ったのですが、住民の方は古墳だったとご存じなのでしょうか。
まぁただならない雰囲気なので、何かあった場所だとは明確なのですが。




更にカーブは続きます。
かなり見通しが悪い道ですね。
クルマで通行する際は、徐行するのが賢明だと思います。




道はやっと直線に。
なんだかホッとします。
人って案外見慣れないものに弱いんですね。




そうこうするうちT字路の交差点に。
ここでは右折します。




右折した先は道がクランクになってます。
交通量が少ないから良いけど、クルマでは走りたくないなぁ。
見通しが良くないので。




そうしてクランクに辿り着くと、見覚えのある風景が。




上野芝公園に戻ってきました。
これで跡地を巡る旅も終了です。
百舌鳥大塚山古墳の悲劇って、駅に近かったことも一因でしょうね。
冷静に住宅地として見たら、駅にほど近い一等地ですもの。
保護の意識が低かった当時、開発されたのは仕方ないのかも。
探検隊は心に悲しさを感じつつ、現地を後にしたのでした。

「上野芝で幻の古墳を探検!」

おわり。


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