善の中に棲まう悪

むかーしむかし、それは太古むかしの話
人々は、天地の大災害、はやり病、人々同士の争いを避けることが
できず、人々は死に、飢え、苦しんでおったそうな。
人々は、明日食べるものさえ平等に行き届かず、不平等が当たり前で、
奪い、殺し、蹴落とし、自らの生命を保つため他者を陥れた。
それはそれは見るに堪えず、人の世はまるで獣蓄のようだった。

そんな折、各々の集落ごとに、聡い者が現れ、彼らを導かんとした。

”人から奪ってはなりません”
”人に分け与えましょう”
”人を殺してはなりません”
”人を蹴落としてはなりません”
”災害、はやり病には、なせることをなしましょう”
”それでも死んでしまった際にはお別れをして悲しみに我を忘れないように”

人々は、教えを大切に聴き、共感し、時に縋り、一つになっていった。
何が善いことで何が悪いことなのか、教えを胸に一人一人が考え、
自らを諫め、他者を迫害することなく集落を維持していった。
自らの子どもたちにも信じた教えを引継ぎ、人々は獣畜とは異なる、
人間としての確固たる文明を築いていった。

この教えが宗教であり道徳、倫理。善悪の誕生である。


時は過ぎ、ここは現代。
日ノ本の国。
人々は文明を手に入れた。限りなく生命は維持され、人口は増えて
心豊かな生活を、人々は手に入れた。
人々は文明を手に入れる過程で、学校をつくり、法律をつくった。
学校では、道徳、倫理の決められた善悪を教え、
法律による規制によって、人々に決められた善悪を強いていた。
善悪はあらかじめ決まっていて、システムによって管理され、システムから
外れたものは、迫害された。
かつて人間が手に入れた、人々を共感させ、集落をまとめ、
人々の心を救う、善と悪は、人々の心に沈んでいった。
大多数の”運のいいシステムに順応できる者”を善とし、
少数の”運のわるいシステムに順応できない者”を悪とすることが
当たり前となっていった。


人々は心ではなく、システムによって決められた、
善悪の上で過ごしている。
与えられたシステムに則っていればいいと、
他の道理は個人の主観にゆだねられる。

システムに順応するだけの獣畜が
人から奪い、独占することがあっても、
人の心を殺し、蹴落とし、生きる希望を奪っても、
罰せられることはなく、善き者として周囲から賞賛された。

人が良く心根の優しいものが、
奪われ、失い、心を殺され、蹴落とされ、生きる希望を失い、
システムから外れてしまったとき、彼らは社会から、
悪しき者として迫害され、よりよく生きる未来を奪われた。

システムに順応できる獣畜がシステムに順応できない人間を迫害している。
これを必要悪と呼ばずして何と呼ぶのか。

システムに順応できる善き者か、心卑しき獣畜か

システムに順応できない悪しき者か、心優しき人間か

誰にも棲まう可能性。
今一度、心の声を聴いてみよう。

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