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“あいみょんに感謝している”話
「ハルノヒ」がとても好きだ。
あまりに聞いてるもんだから、もうすぐ5歳の息子にまで伝染したようだ。
フンフンとそれっぽく口ずさむ姿は、ただただ癒しでしかない。
そしてふと一緒に歌いたいなと思った。
運動不足の解消と息抜きがてら、最近は週2程度のペースで、15時頃から3時間ほど、暗くなる前まで田舎道を自転車2台で疾走する。
誰とも滅多に会わない田舎道だという予防線くらいは張らせてほしい。
自転車で走りながら、時には上り坂で仲良く自転車を押しながら、スマホでこの曲を流すようになった。
ところが私も息子も歌詞がわからないから、サビの一節だけを待ち侘びるという、進歩のない現象が永遠に繰り返される。
「どんな〜未来が〜こちらを覗いて〜るかな〜
君の強さと↑僕の弱さを↑分け合えフーフーフフンフンフン」
この部分さえ歌えれば、僕らはそれでも満足だった。
いつしかCDを買う事はなくなり、かろうじて残った音楽との接点はYouTubeとSpotifyくらいになってしまった。
そして多くの場合、これらはBGMに留まるようになり、歌詞は必要なくなってしまった。少なくとも自分にとっては。
これらの行為が決して褒められる事ではない事は承知しているが、自分を棚に上げて言ってしまうと、歌詞と接する機会と環境は確実に少なくなった。
少しノスタルジックに遡る。
私が幼い頃、音楽に触れられる環境はCDとテレビ位しかなかった。
もちろん現代のようなサービス達は影も形もなく、CDは買うか借りるかの2択だった。
CDを持ち帰ると、それは自動的にパッケージ(入れ物)に入っていて、同じそれはプレイヤーやコンポで流すものだった。
スマホなんてその当時はなく、音楽を流す時には決まって、そのパッケージだけが手元にあった。
そしてそこにはアーティストの写真や、その歌詞たちが書かれている。
決して比喩ではなく、穴があくほど見た。
当時はそこまで意識していなかったとはいえ、色や雰囲気、書体や行間で、目一杯その世界観を表現してくれていた事が、今なら分かる。
一生懸命覚えようと、その曲達の世界に浸ろうと、していた。
現代のように音と映像がセットではない世界が、あの頃にはあった。
今更だが、これは息子の話ではなく、私自身の話だ。
だがこれは、同時に息子の事を考えたい話でもある。
自分が見てきたり感じてきた事を、盲目的にやった方がいいとか、経験した方がいいとか、押し付ける事はできればしたくない。
息子はまだ、読んで字の如く「音を楽しんでいる」だけで、字を読ませたり、意味を理解させるには、まだ少し時間がかかる。
サイクリングから帰ってきた私は、今夜パソコンでその歌詞を見た。
大げさではなく、少し泣きそうになり、すごく泣きそうになり、こっそりではあるが、久しぶりに自分でも驚くほど思いっきり泣いてしまった。
“私と息子のことを歌ってくれてる”と思ってしまったから。
歌詞という人でもなんでもない存在に対して
「ごめん忘れてたわ」こんな気持ちにもなった。
今も昔も
CDもネット配信も
私も息子も
どちらにもいい所があり、どちらにも足りない所があるんだろう。
意外と私は“歳を取るのも悪くない”と思えていた口だが、いつの間にか
“落としてしまって足りなくなってるのに、それに気付けない愚かさ”
も身につけたんだと、今さっき気が付いた。
この記事も書き出しからでいうと、自分ですら思ってもいなかった結末を迎えようとしている。
いつものように、強調したい所は太字にしてみたり、目次を設けるか悩みながら書いていたが、ここにきてそれがなんだかとても軽薄な行為な気がしてきて、全部フラットにした。
たまには飾らず、素直に思っている事を書こうと思わせてくれた。
たまにはいい父親もやめて、伝えたい事を伝えちまおうと、そう思っている。
少し遠いが、今度のサイクリングの行き先は決まった。
そこから帰ってきたら、嫌がる息子を捕まえて、できるだけ分かりやすく、少しでも何かを感じてもらえるように、歌詞を教えてやろう。
もう今は車くらいでしか聞けなくなったCDを開きながら、自分の気持ちもこっそり乗っけて。
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https://www.uta-net.com/song/265755/