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これは、現代の【幸福論】だ。
朝井 リョウ
1989年、岐阜県生まれ。小説家。
2009年、『桐島、部活やめるってよ』で第22回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2013年、『何者』で第148回直木賞、2014年、『世界地図の下書き』で第29回坪田譲治文学賞、2021年、『正欲』で第34回柴田錬三郎賞を受賞。
その他の著書に『少女は卒業しない』、『世にも奇妙な君物語』、『死にがいを求めて生きているの』、『スター』など。
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前作の【正欲】が素晴らしい小説だったので、最近出た新刊を購入して読んでみた。ちなみに私は彼のことに結構詳しい。なぜならラジオやエッセイを愛聴・愛読していたからだ。彼のエッセイより笑える本はなかなか無いかもしれない。気が向いたらぜひ手に取ってもらいたい。
さて、この新刊【生殖記】についてだが内容についてはすでに告知されているものを引用する。
とある家電メーカー総務部勤務の尚成は、
同僚と二個体で新宿の量販店に来ています。
体組成計を買うため——ではなく、
寿命を効率よく消費するために。
この本は、そんなヒトのオス個体に宿る◯◯目線の、
おそらく誰も読んだことのない文字列の集積です。
私はこの一見ふざけたタイトルの小説を”現代の幸福論”と結論付けた。過去にいくつかの有名な幸福論がある。
幸福論(こうふくろん、Eudaemonics)とは幸福ひいては人生そのものについての考察・論究のことをいう。
今日「三大幸福論」と言えば、ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)による3つの幸福論を指す[1]。
これらの中でもよく知れているのは1925年のラッセルの幸福論ではないだろうか。その論説は、「己の関心を外部に向け、活動的に生きるよう。」というものだ。
それまでの幸せとは宗教による「受け身の幸せ」だったのだが、ラッセルは能動的な幸せを提示したといえる。幸福論は時代によって変化する。生活様式や、価値観が大きく変化するからだ。
朝井リョウの【生殖記】からいくつか文章を引用させてもらう。
「否定形の意思表示って、誰にも見えないんですよ。」
尚成、唾を飲み込みます。
「どんどん外界を遮断して、自分から独りに逃げ込んで、色んなことを”してやらない”って決めて」
尚成、颯の目の中にいる自分を見つめています。
「それで世界を否定した気になっても、周りから見ればそれって、ただそこにいる人なんです。」
(中略)
「で、いつか、そういうものたちに人生を乗っ取られるんです」
現代の幸福度を測るモノサシは「他」に依存している。SNSが流行して益々その傾向が加速した。「他人がこうだから…」「他社はこのように…」のように。小説ではこの「他」のことを「共同体」と表現している。
共同体から認められた時に幸せになるというのが現代の幸福論。ここまでの論調はよく聞くのだが、ここからがこの作家の凄いところだ。
その共同体感覚に欠けた人たちがいる。その人たちの「次の姿」を見せてくれる。それが上記にある文章だ。
共同体感覚に欠けた人たちとはつまり、社会的弱者を指す。
社会的弱者はどのように生きるのか?
現在では得難い幸せを、我々は手にすることができるのか?
の答えのようなもの…とでも言えばいいのか、作者はこの小説に提示している。私はこの【生殖記】は、前作である【正欲】の続きのような話だと思った。
この二つの小説は現代の幸福論だと思う。幸福について人は古代から探求してきた。宗教を作り、哲学を作り、便利な時代を目指した挙句にまた幸福を見失い、「他」を参考に幸福を見出すというおそらく間違った幸福論が現在は主流になっている。
その現状におかしな目線と、巧みな文章で新たな世界を見せてくれる。これはそんな小説である。