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なぜ日本人なのか 

先の記事の7%問題で、海外で日本語の習得に問題が起きた日本人に、日本語で言語療法を提供したいことを書いた。

ではなぜ日本人なのか。日本語なのか。
今日は、こころの話として、それを書いていく。

日本人は、独特な民族である。
そして、かなり極端な民族でもある。
例えば、異なる国の人を理解するために、各国のビジネスパースンの特徴を描いた下記の書籍の図によると、各指標で日本人はどちらかのにプロットされることが多い。
極端なのだ。

日本人 海外在住
エリン・メイヤー 岡田恵 監訳 異文化理解力 相手と自分の真意がわかるビジネスパースン必須の教養 英治出版 2015


また、おもてなし文化は、海外でも有名なところである。
今年2024年は、パリのオリンピックであったが、4年前の東京の時と、風土の差がとてもよく出た。
冷房すらない宿泊施設や、食事内容など、ホスピタリティのあまりにもの違いが、SNSを賑わわせた。
とてもベストな状態で、競技できる状況ではなかった、と言う。
フランスは自分中心。
日本は、選手の立場を想像した装備や配慮を、当たり前のこととして考える。

おもてなし 日本人
海外在住 日本人 ことば


メンタライズ

この、自然と相手の立場に立って物を考える力。
これは、メンタライズと言う言葉で現すことが出来る。

あたかも相手が自分であるかのように、こころを使う。
習慣と言えるレベルで。

その才能の起源は、日本人として育てられる始まり、子育ての文化から来ている。

赤ちゃんを欧米では、夫婦の寝室とは分け、すぐに別の部屋に移す。
ベビーベッドに入れ、泣けど騒げど朝まで構われないことが多い。

子育て 欧米 文化

中世のヨーロッパでは、子どもは小さな大人と見做され、早く大人になるよう育てられたと言う。そんな歴史も、関係しているのだろうか。

赤ちゃんの方も泣けど騒げど誰も来ないので、次第にその状況に適応していく。
自分で何とかするしかない。
この辺りから、自分中心、は始まっている。

それに比べ、日本ではお母さんが子どもを肌身離さず持っている時間が長い。
妊娠中はお腹の中で、文字通り一心同体だが、出てきてからも背中にくっつけて、まるで一つのようだ。

お猿さんの画像が思い浮かぶ。

アタッチメント 子育て

肌身離さず、くっつけておく。

子育て おんぶ 日本人
子育て 家事育児 おんぶ

布団の文化だった、というのもあるかもしれない。
地続きで、境目なく、手元に置いて面倒を見た。
手繰り寄せれば、そこにいる。

日本人の方が、動物に近いのだろうか。
切り離して、すぐに躾たり人間らしくしよう、とするより、感覚が動物的なのかもしれない。

そして、肌身離さず、赤ん坊を抱えていると心理的に起きること。

それは、この子、何考えているかな、と思う時間が増えるということだ。
身体の接触が増えれば、リアルに相手のことを考える回路が、活発になる。
どうして泣いているのかな。
おむつかな お腹がすいたかな 暑いのかな 具合が悪いのか?
どうしたんだろう。
あたかも自分のことのように考える。

このあたかも、がメンタライズの肝だ。
相手と自分は一つ。
その状態で長い時間を過ごす。

自然と、自分の一部として相手のことを考える。
ワンネスが、板につく。

落とした財布は戻って来る。
荷物を置いて、場所取りOK。
海外では伝説のように言われる。
震災の後も、辛抱強く一列に並んで炊き出しを待つ姿は、外国のメディアで報道された。

メンタライズの弊害

しかし、メンタライズには弊害もある。
それは、

相手のことを考えすぎて、神経症っぽくなるところである。

相手がどうなのか。
結局それは本人にしかわからない。
赤ん坊の頃ならまだしも、欲求も感情も複雑化した大人では相手のこころの内を言い当てることなど出来るわけがない。

しかし、この ワンネス
なんでも叶う気持ちよさ
これに慣れ親しんでいる日本人は、ここに留まりたい気持ちも強い。

甘え
とも言える。

そこで、外に出て行こうとしない。
聴いて確かめればわかることを、相手の気持ちを想像するのは良いことだ、とされ、
ああだろうかこうだろうかと、思いめぐらせる。

そうしているうちに、一人頭の中で話が膨らみ、
収集が付かず、時間は過ぎていく。

そして、自分もやっているんだから、相手にもやって欲しい・くれるはず、と、相互疎通性のない期待をし、
それが叶わないと被害者意識に入っていく。

自分のやるべき事・やりたい事が出来なくなる・分らなくなる

相手のことを考える、が応用編に入ってくると、
日本人は、自分のやりたいことをやらない、やるべき事をやらない言い訳として、
人を使う、ということをやる。

〇〇ちゃんはきっとこう思うから、
お母さんに迷惑かけたくないから、
先生がこう言ったから。

人のことを考える、が社会通念上の前提になっているかのようなので、
言い訳として成立しやすい。
責任を、避けながら、

自分を、守ることが出来る。

何とも、思考が麻痺するような、防衛手段だ。

相手のコントロールとすり替わる

自分の要求を、はっきり感じようとしなければ、
それは曖昧なまま、しかし無くなることはなく、
相手に求めることが起きる。

この子はこうして欲しいはず。こうしたいはず。

子どもの側も、自分の要求を回すということを育ててもらえなければ、
根源的な要求 愛されたい、いい思いをしたい、快ち良くいたい 
から動き、親の意に沿う「こうしたい」を言うようになる。
「自分は」と言う主語で。

二人は一つの蜜月が、延長戦に入るのだ。

得点すれば必ず失点をする。
相手が得点すればこちらも得点する。

それがお約束のゲームになので、
本来どこかで決着がつくはずの、甘えの時期 は、
永遠に引き延ばされる。

どちらかが、自分はこのゲームを抜ける
と、決めるまで。

集団同一視

あたかも一つ の気持ちよさ、心地よさ。
相手に期待できる、叶えてもらえる。
それへのこだわりが強くなりすぎると、
みんなでそれを守ろう、と意識が集団のレベルになる。
みんなで、みんなが一緒 を守ろうとする。

あなたと私は一つで同じ。
そこから外れるものを、排除するようになる。
あるいは矯正しようとする。

いじめの問題
そして社会構造として適応でいない人がいる・作られている問題

集団や組織のメカニズムとして、動くようになる。

本音と建て前

集団からはじかれる。
その可能性が出てくると、人は本音と建て前を使い分けるようになる。

これが本音で、これが建前だ。
分かっているうちは良い。
内側と外側で適応していくことは大切だ。

しかし、自分でもどっちをやっているのか分からなくなってしまったりすると、その切れ目から問題となる行動が現れる。
分離してしまった裂け目。
地に足がつかない ”自分”は、エスカレーションする。

本音に耳を貸さないことを続けていると、自分で本音は何か気づけなくなり、しかし無くなりはしない本音は、盗る 行動を始めたりする。
正当にはもらえないのだから。
人の見ていない所で、こっそりやる。

共感

このように、人と自分 の分け目が曖昧であると、問題が噴出する。
依存も起きる。

この 一つに伴う曖昧さ を、ぶった切る必要がある。

メンタライズと似て、全く非なるこころの使い方。
共感 

あなたはこう思うのね。でも私はこう思う。

あなたが悲しいということを私が感じる。
別の人間として、相手のこころを想像する。

つまり、別の人間なので、外れる場合がある、と言うことが想定されている。
別の人間だから、外れたとしても私の思い、考えはあって良い。

メンタライズは主に、0~1歳の子育てで使われるこころの使い方である。共感は主に1歳半~2歳~ の子育てで使われるようになる。

言葉を使えるようになり、近づいたり離れたり、移動の自由を獲得した子どもは、別の人間である。

なので、別の人間としての介入が可能になる。

背負って立つのでなく、並んで隣に立つ。

その踏ん切りをもたらす。

泣けど騒げど、それは出来ない。
相手にも都合があることを学んでいく。

相手あってのことは、先の記事で書いた、不安を生む。

こころの揺れ。
子どもは、ヒトとして、それに耐えられるだけの、強さを獲得してゆく。

何故ならあなたはもう、自分で好きなところに動いていけるから。
言葉を使って、体験を処理することができるのだから。

メンタライズの時期に感じたのは、恐怖だった。
捨てられたら生きていけない。
空腹や不快は、自分ではどうすることもできない。

それが二人の人間になったことで、不安に変わる。
扱えるものである可能性、自分次第で工夫できる可能性が出てきたのだ。

7%問題

メンタライズは、副作用の強い薬のようだ。
私、がなければ、極端なものになる。

しかし、その強力な薬は、今後の地球規模での問題を考える時に、独自の役割を果たす可能性がある。

自然と浮かぶ生き物としての感覚。
争いなく縄文の1万年を過ごしたDNAが、育児の文化をそのようなものにしているのだろうか。
内側から現れて来る感覚、というのは強烈で、解決の核心である。

気をつけるべきは、強力な副作用。
現代の日本人は、それを防ぐべき次の一手に、出にくくなっている。

なんでも便利になった。
時間がかからなくなった。
結果はすぐ得られるようになった。

しかし、相手の意図に合わせ、相手が試行錯誤するのを見守り、育ってくる能力に応じて、手伝いの量を増やしたり減らしたり。
また、不安や葛藤に伴うその時々の矛盾するような、強烈な生の感情に、共感しながら付き合いながら、支える。

それらは非常に手間であるし、すぐに結果が出るものではない。

現代の人は、いい加減にしろ!と叫ぶし、私も叫んだ。

しかるにこれが、人間にしか、出来ないこと。

AIを使って何をするのか。
今後問われる問題である。
AIを使う人。
意思決定をする人。

そのは、こころが豊かに、健康に育っている必要がある。

AIには出来ないことだから。
独自の部分を引き受けよう。

日本人は、本来生き物として人を育てるのが、上手かったはずである。
生理的に早熟に生まれる ヒトを、肌身離さず持ち 人 として躾られるよう養育する。

メンタライズで育ったこころを、共感を用いて人を理解することに使う。

7%の、適応できな子どもたちが教えてくれている。
こころを育てる時に、今何が難しくなっているのか。
どこに、失敗しているのか。
社会構造として、何を修正できるのか。

海外で育つ日本人の子どもは、一つであるという日本人のバックグラウンドと、全く異なる二つの文化的背景を、統合していくことになる。

海外に住む日本人では、異なるこころの使い方を、葛藤を経て統合せざるを得ない。

それは言葉の問題としても現れる。

なので、リミティドバイリンガルになる7%の子どもは、その全く違う空気、文化を自分に統合することに、対処できなくなっている人の シンボル ではないかと思うのだ。

こころの問題として現れる場合もある。
幼児期の言語獲得は超えたとしても、思春期・青年期で統合や社会的背景との葛藤が、抱えるには大きすぎることがある。

日本人の極端さを、新たなアイデンティティにしていくため、その葛藤に共に向き合う。
メンタライズの機動力を最大限に生かすには、 が必要。
 に住む人の役割は大きいのだ。

今、ワンネスと私の存在 を統合することは、今後の社会問題の解決の鍵であると考える。

すると、その葛藤に躓いている人や問題に、支援を差し伸べることが、今後の世界への投資になるのではと構想する。

きっかけをくれる。
気付きをくれる。
実務をもたらす。
転換を促す。

それを、実践し報告していく役割を、私は果たしたい。

#かなえたい夢 #日本人 #発達障害 #鬱 #不登校 #バイリンガル  







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